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発信者の意図は置いてけぼりに死が勝手に晒し者にされる世の中ですよ

この記事を読んで、もし写真をそのまま受賞させて一般に公開された後で件の事情が明らかになったとしたら「【閲覧注意】この写真を撮られた十日後に自殺する少女、(以下、書こうと思えばそれっぽく書けるけどゲスな煽り省略)」みたいなタイトルでアフィ記事作る奴なんぼでもおるやろなぁ、くらいのことを僕は2秒かからず思いついたんですがこの受賞取り消しの判断を頭から否定している人たちはそこらへんどう考えてるんだろうか。

こんなことをまずイの一番に思いつく僕がゲスだと言うのならそれはそれでいいんですけど、そんな当たり前に想定できる可能性にすら思い至らずいつも取り返しがつかなくなった後に「世の中にはそうぞうをぜっする悪いやつがいたもんだ!」ととりあえず怒るだけ怒ってみて溜飲を下げるばかりで結局その後も同じことを繰り返し続ける人でいるよりはマシです。

遺族が快諾してるんだからいいじゃんとか言いますけど、遺族がどこまで想定してるのか記事内容を見ただけではわからないし、僕はそういう僕には明らかに想定できる悲劇の可能性を提示しないまま「まぁなんか当事者が公開して良いって言ってるみたいだし」と他人事感覚丸出しで好きにさせとく態度でいる方がよっぽど居心地が悪い。少なくとも僕が遺族の親族だったり知人だったりしたら以上のような理由で「やめといた方がいいのでは」と説き伏せる。それでもなお、本来の意図から外れた不本意な形で拡散される可能性も承知したうえで、どんな形であれ一人でも多くの人に事の次第を知って欲しいんだって言われたら、まぁそれは公開した方がいいのかなとは思う。けど、そこまで考えあってのことなら快諾って書き方にはならんような気もする。ここらへんは憶測でしか話せない。

みたいな話をしていると「可能性の話を始めたらキリがない」とかよく言われるんですが、めちゃめちゃキリのある話をしています。「不本意な形で拡散される可能性」を考慮する必要などないとあなたは考えますか、というただ一点のみを問いたい。

どこを歩いてもスカイフィッシュの如くWi-Fiが飛び交い躱しながら歩くだけでも一苦労な現代、一般向けに一度公開してしまったものなんざ死ぬほどアンコントローラブルで、発信者の意図なんか全然無視した形で悪意と好奇心と無責任と個人的な正義感とその他諸々を綯い交ぜにしながら不本意かつ盛大に拡散される可能性があることくらい誰だって分かりきったことではないですか。一度公開してしまってそれが悪い方向に転がってしまったらそれはもう発信者には収拾することもできず責任の取りようもなかったりするわけです。そのような環境のなかで死というセンシティブな背景を持つ写真を公開に踏み切るか踏み切らないかを都度都度逡巡して、公開するって結果になったり公開しないって結果になったりすることって別に普通のことだと思うんですけどね。だから僕は今回の受賞取り消しという判断それ自体は全く問題がないものだと考えます。

もちろんここまで書いてきた「僕が受賞取り消しという判断も妥当だと思う理由」と、記事の中にある受賞取り消しという判断に至った関係者の考えが完全に一致しているかというと全然そんなことなさそうだし、受賞取り消しに至る経緯とか、明らかに配慮に欠けた市長の弁など、批判するべき箇所はたくさんあるとは思うんだけど、「公開して何の問題があるんだ」「日和るな」みたいな批判の仕方をしている人がどういうつもりで言ってるのかよくわかんねえなぁ、と思った。

一回遺族の許諾を得た後でやっぱり取り消しの決定っていうのはマジで頭悪いよなぁとは思うけど、そこまでやってしまっては後に引くわけにはいかないからという理由で受賞させて公開するってのも同じくらい頭悪いと思うしなぁ。そういう意味で、結構手前の段階で間違えてたんだろうとは思うけど。特別賞みたいなのを送ったうえで「写真が公になり、さまざまな臆測が出ることを懸念」した結果、作品自体は非公開にする、とかできなかったのかなぁ。

 

あとこれは全く個人的な考えではあるのだけど、受賞して公開することでもちろん遺族が喜んだり色々な温かい反響があったりだとかポジティブな作用も色々あっただろうってことはもちろん重々承知なのだけど、第三者を積極的に参加させる形での弔いが常に最良の選択だとは僕は全く思えないし、そういう選択を避けることが弔わないとか死そのものを忌避してるってことになるとも全然思わない。以上です。