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『アンダーグラウンド』『約束された場所で』感想文

 今年の頭だったかに、なんだか今、俺が読む必要性を、おもむろに感じたので、村上春樹の『アンダーグラウンド』をちびりちびりと読み進めていた。オウム地下鉄サリン事件の被害者たちのインタビューを集めた分厚い本だ。それで、読んでいて面白かったのだけど、読み終わったところで感想文を書こうにもどうにもうまく書ける気がしなくてそのままにしていた。

 うまく書ける気がしなかったのは、まずひとつに、すべてのインタビューが終わった後ろについていた村上春樹の長いあとがきであらかた言いたいことは言われてしまっていたようなところがあった。そして正直なところそれを読んで「やられた」とも思った。村上春樹が先に言い果せてしまった僕も言いたかったことというのは、もう既にインタビューに応えた彼らが言外に言っていたこと、ほとんど本の中に書かれているも同然のことに過ぎなかったのだ。それをなぞれば感想文を書いたことにはなるだろうが、それは極論を言えば誰が読んでもそのように書ける感想文でしかない。そうではない私の感想文を書こうと思ったら、もう少し考えなくてはならないことがあるし、それは誰かのことではなく私のことを考えなくてはならないということであるし、それはとてもしんどい行程でもある。もちろん本というやつは感想文を書かれるために存在しているわけではないのだろうが、第三者が簡単に痛みもなく書けてしまう感想文を先回りして村上春樹が書いてしまうことで(なお、実際にインタビュアーとして彼らの言葉に耳を傾けた村上春樹はかなりの痛みを伴ってそれを書いたのだろうとも思う)、はっきり言って僕は退路を絶たれたようにも感じた。気付いた時には、インタビューを受けた彼らが「オウム地下鉄サリン事件の被害にたまたま遭った人」としてあの事件を語っていたように、こちらも一冊の本の読者としてではなく「オウム地下鉄サリン事件の被害にたまたま遭わなかった人」として語るしかない状況に追いつめられてしまっていたのだ。

 私はそこですらすらと思いの丈を語れるほどに頭の良い人間でもなかったので、一体どうしたものかとしばしば考えあぐねてはしばらくそのままにしておいたのだが、実は『約束された場所で』という続編のような本が出ていることを何かの拍子で知った。こちらはオウム信者あるいは元オウム信者へのインタビューを収録した本だ。それで、早速こちらも読み進め始めたのだけれどこれもまた面白かった。むしろこれを読まないと『アンダーグラウンド』を読んだことにはならないのではないかとすら思った。先々で人に『アンダーグラウンド』を今読んでいるんですよと伝えるたび、既に読んだことのある人はその人なりの感想だとかあの分厚い本を読み進めるコツだとかを私に教えてくれたが、『約束された場所で』の存在を教えてくれる人はいなかった。なぜ教えてくれなかったのだろうかと今になって考えると少し不思議だ。あるいはそれは言うまでもない一般常識だったのかもしれない。私は一般常識が少し足りない。例えば電子レンジでなんでも温めすぎる。

 『アンダーグラウンド』を読み進める中で常に私の中にあったイメージは真っ暗な無重力空間を天地も左右もなく揺蕩う無数の長い長い紐と、それらを一点で束ねようとするヘアゴムだった。インタビューはインタビュイーの生い立ち、日々の暮らしぶり、趣味趣向などを掘り下げるところから始まる。もちろんそこには特異的な(被害者に選ばれるに相応しいような)共通点など見つかるはずもない。彼らは彼らなりに各々の毎日をその日まで生き、たまたま、偶然に、不運にも、その日、サリンに見舞われることとなる。それまで各々バラバラに、その人なりの人生を語っていた人々が、たまたま、その日、同じ電車に乗り合わせていたという理由で、異口同音なサリンの被害体験を語り始めるのである。自分とは似ても似つかぬ別の生き方別の考え方をする人の言葉を立て続けに摂取しながらも、都度定期的に事件当日の車内・駅構内での様子が挿入される。読み進めれば読み進めるほどに、当日の描写に抱く既視感は強くなっていく。そして、当日の話を終えるとまた千差万別にその人なりの事件のその後がそれぞれに語られることとなる。オウムに対して抱く感情も人によりけりでグラデーションは多彩だ。もちろん、後遺症の重さも人それぞれではあるのだけれど、一概に身体に受けた被害の影響が大きければそのままに憤り、小さければそれほど気にも留めていないという傾向があるとも言い切れず、被害の大小よりも単純な根っこのところである「わけがわからないうちに誰かに何かをされた」という事実をどう受け止めるかは個人の生き方によるところが大きいのだなと思う。

 読んでいて興味深かったのは、比較的軽度の被害に留まりその後の日常生活に明らかな支障を来たすことなく生活している人であっても疲れやすくなったとかなんとなく気分が上がらない時が多くなったとか、そういう話が出てくるところだ。それが一概にサリンの影響なのかと言えば実のところよくわからない。実際にインタビュイーの中でも「単純に加齢のせいだと思うようにしている」なんて言う人も少なくない。サリンのせいかもしれないしサリンのせいじゃないかもしれない。医学的だか物理的だかそういう意味での実際のところは僕にはよくわからないけれど、そんな風に自分の身体の変化を感じた時にサリンのことが頭をよぎるだとか、サリンの話をしている時に単純な加齢かもしれない身体の不調の話が口をついて出るだとか、そのことこそそれ自体があの事件が残していったものなのだなと思う。これは全く無関係であった自分だってそうだ。例えば、あの事件があった時にもう物心がついてた人間であれば、日頃電車に乗っていてどこかから何か異臭を感じたらギクリと思う瞬間があってもおかしくない。ギクリとするただそれだけのことでも十分に、自分はあの事件を体験しているのだなと思う。何かを残されているのだなと思う。なんて言い方を当時遠く離れたところからテレビ越しに眺めていただけの自分がすると、実際に被害に遭われ今も苦しんでいる人たちに悪いような気もするけれど、やっぱり僕はあの事件を体験しているんだと思っておいた方がいいような気がした。想像もできないことが一度起こってしまったら、もう二度と想像もできなかった頃には戻れなくなる。いくら寝て起きたって、その日より以前には想像もできなかったことが嫌でも想像できてしまう明日しかやってこない。そのことをとても恐ろしいなと思った。オウムの事件に限らず、生まれてからこれまでの間に、自分はどれだけの想像もできなかったことを失ってきているのだろうか。或いは想像できてしまうことを抱え込んでしまっているのだろうか。

 などと考えているうちに、想像もできないけれどそれでも起こりうることというのは案外想像できないほど無数にあるわけでもないんじゃないだろうかと途方も無いことを考え始めてしまった。単純に我々が想像しないことであれば想像できること以外のすべてがそうなのだから確信を持って無数にあるはずだけれども、何しろ一度知ってしまったから体験してしまったからその目で見てしまったから、想像できてしまうことをあまりに抱え込みすぎた現代だ。想像できないことなんて本当は、ほとんど残っちゃいないんじゃないかという気すらしてきた。だのにもそれが想像できないのは、僕らが想像もできないような現実から想像力を獲得することにあまりに慣れすぎてしまったせいじゃないかと思えてきた。僕はもっと想像しなくてはならない。想像できなかったものがある時どこかである形で出現して、理不尽に僕らのある瞬間を束ねてしまって、束ねられてしまった体験を引きずって生きるより仕方なくなってしまうその前に、僕は僕の周りを揺蕩う紐を僕の想像力で束ねてやらなくてはならない。もちろん僕のちっぽけな想像力で束ねられる紐の本数なんてあまりにたかが知れているけれども、そうすることでしか人は大きくって理不尽な想像もできないような物語から逃れられることなんてできやしないのではないのだろうか。

 もちろんこれは個々人の心がけ次第でサリン事件の被害を免れることはできたはずだなんて馬鹿な話ではなくて。みんなが想像もできなかったものを想像するためにサリン事件は必要なことだったなんてわけもなくて。どうしようもなく何もかもが簡単に暴かれてしまった後の世界に生きてしまってる我々は、何かが暴かれて初めて知ったような顔になることに好い加減うんざりしなくちゃならないのではないか。みたいな、なんか、そんなことを思った。

 自分でも何書いてるかよくわからんくなってきたけれど、結局この2冊の本は、なんで感想文の書き方がわかんねえかって、作者の作為が無いもんだから。全く無いは言い過ぎなんだろうけど、本当に最低限しかない。その最低限の作為については、先に述べたとおり村上春樹が全部あとがきで種明かしをしてしまっている。そこで村上春樹の作為なんてものはまるっとなくなってしまい、後に残されたのはただインタビュイーの声ばかりだ。しかしこれでヒントはきっと全て出揃っている。いや、想像もできないことは生きてる限りこれからも延々出てくるのだからヒントもこれからどんどん増えていくのだろうが、きっと今の段階で既に、十分過ぎるほどに、答えを見つけるために必要なヒントは出揃っている。と、考えなくてはならない。そして答えを想像しなくてはならない。その想像力を以って自らの周辺を揺蕩う紐を束ねてやらねばならない。待っていればこれからもヒントはどんどん出てくる。僕はその時を、既に答えのわかりきった物語をもて遊びながら想像力を働かせた気になって待つ。そしてまたヒントが現れる。そのたびに僕はわかったような気になる。しかし、それは想像もできなかったことが一つ減って、想像できてしまうことが一つ増えるだけで、僕は実のところ一つも想像力を発揮できてなんかいないのだ。そうじゃなくって、僕は想像しなくてはならない。そうすることがきっと、ちゃんと恐怖するってことでちゃんと憎悪するってことでちゃんと心配するってことでちゃんと愛そうとするってことなのだ。

 

アンダーグラウンド (講談社文庫)

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約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

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