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『おおかみこどもの雨と雪』観ました

去年の末に金曜ロードショーでやってたのを録画してたんですけど師走はそこらへん走ってる坊主にパイをぶつけるバイトが忙しくて、 今月も門松と鏡餅をショットガンで撃つバイトがずっと忙しくて(人を撃つとライフが減る)なかなか観れなかったのをやっとこさ観れました。明日からはもちろん鬼にジャイロ回転の豆をぶつけるバイトです。

当該作品についてデフォルトで否定的なスタンスのほか何故かとばっちりでミスチル桜井さんとケータイ小説についても否定的な記述があるのでむかつきそうな人はご注意ください。むかつくのってあれ身体に悪いじゃん?ご自愛ください。白湯飲め白湯。

おおかみこどもの雨と雪(本編1枚+特典ディスクDVD1枚)

おおかみこどもの雨と雪(本編1枚+特典ディスクDVD1枚)

 

 喩えの精度にまったく自信ないんですけど、見終わった感じとりあえず思ったのが「あ、たぶんこれが俺あんま好きじゃない理由は、俺がミスチル好きじゃない理由と似てるな」でした。ミスチル好きな人、好きで別に全然いいし、好きになる感じも別にわかるんだけど、俺はなんかすげー「で、お前誰だよ!」って思うんすよね。なんかこう、いいこと言ってますよ、わかる。よく世相というかこの現代で生活を営んでる人の気分をよく理解しててうまいこと言えてるけど、「で、お前は?」ってなる。「わかるよー、お前ら色々あるよなー、わかる。俺わかるよー、わかってるのわかる?」って言われてるような気がするんすよ。「いや、わかってくれなくて要らないよ、で、お前どうするんだよ。ていうかお前誰だよ!」と思ってしまう。「お前誰だよ」へのカウンターとして「いや、天下のミスチル桜井ですけど?」っていうめちゃめちゃ明快なアンサーがあるのは知ってるんですけど、そしてミスチルの活動として彼が邁進ドゥーしてることは知ってるんですけど。先導者であって欲しいんですよね。俺が求めてるのは「どうも、俺です」っていう気概であって「僕は理解者であり代弁者でござい」みたいなスタンスが苦手なんですよ。そしてミスチル桜井は「俺にはそういう風にしか見えない」っていう理由で俺あんま好きじゃないんですけど。余談が長い。

そういうわけで、おおかみこどもも何かあんまピンとこなかった。作品が投げかけてるあれやこれや、受け止めて考えて欲しそうな顔してるあれやこれや、例えばそれは母性の話かもしれない愛の話かもしれない生き方を選択するという話かもしれない、なんかそういうところについて大真面目に「俺はこう思った」とフィードバックを投げ返す気が起きない程度には淡々と見終えました。鼻眼鏡でプレゼンされたらプレゼンの内容に質問する気起きないじゃないですか。とりあえずエアガンで撃つじゃないですか。そんな感じでした。

すげぇ当たり前の話ですけど物語って、登場人物が選択することによって進むじゃないですか。で、そこで「物語のためにそう選択する」のか「登場人物が登場人物自身のためにそれを選択する」のか、そこらへんのバランスってすげぇ大事だと思うんすよね。別にどっちが悪いとかじゃなく、そこって意識して悪いこたないと思うんです。例えば前者の典型だったら桃太郎とか、ばあさん桃を一人で割ってたらまた話が違ってくると思うんですよ。じいさん遅いなと思って勝手に桃割ったらおぎゃーつって、帰宅したじいさんに「これ割ったら赤子出てきたんだよ」つっても爺さんは桃太郎とは命名しないような気がする。別にばあさんを疑うわけじゃないけど、桃から生まれたんだと思うよ、それは本当疑うわけじゃないんだけどタカシで、みたいな。そしてタカシとして育った桃太郎、鬼の話聞くやいなやアズスーンアズで鬼退治決意しないような気がする。そこはなんか近所の娘が鬼に嫁がなくちゃならなくてかわいそうで云々みたいなワンエピソードがないとタカシ決意しないような気がする。そうなってくると犬もキビ団子ひとつで買収できないような気がする、鬼でこそないけど山賊かなんかが近所の村襲っててさ。犬はその村にかつて自分が幼い時にヘマこいて死に掛けた時に看病してくれてた娘っ子がいるから山賊と戦ってさ、その心意気を買ったタカシも加勢して友情が芽生えてやっと犬もついてくる決意をするみたいなそういうのないと絶対しっくりこないと思うんだよね。逆に言えば「桃から生まれた桃太郎だから」っていうワンイシュー全ツッパで細かい登場人物たちの選択が必然に見えるような、そういう全部チャラにしちゃう説得力が必要な物語もあると思う。そういう説得力を使ってもいいし、使わなくてもいいし、ただそこをどうするかによってその後出来ることは限られてくるみたいなのは絶対ある。

おおかみこどもがそこのところフワフワしてて楽しめなかった原因って、たぶん俺の中ではとてもハッキリしていて「好きになった相手がおおかみおとこでした」と「おおかみおとこが幼い子どもを遺して死んじゃいました」っていう根っこのところ、これどっちかで良くない? というか、両方やっちゃうときつくない? ていうそれだけなんですよね。これは暴論で例外は挙げようと思えば別に挙げれる気がするんだけど、物語のお作法として、登場人物とか物語に負荷というか圧をかけるために唐突に盛り込んでいいのは一つのレイヤーまでじゃない? みたいなんがあるんですよ。いや、二つ以上盛り込んでもいいんだけど、圧かけるために複数唐突な設定を盛り込むのであればその物語は桃太郎的な予定調和的な、ある程度一本道の物語にまとめないとそれはきっと「ご都合主義」と呼ばれやすい仕上がりになると思うんすよ。それでいうと、あのおおかみおとこの人の死に方ね。別に「おおかみおとこだから死んだ」わけではない時点で、はいそれはもう二つ目の唐突ぶっ込んでるよねって思っちゃう。一つ目の唐突、「好きになった相手がおおかみおとこ」は別に差し支えないんですよ。そこからどうするのかな、と思ったら何か意味もなくおおかみおとこ死ぬじゃないですか。ちょっとぼやかしてミステリアスかつ悲壮な感じで死んではいるけども、なんか脈絡なくその後の展開の都合上とりあえず死んだだけでおおかみおとこ関係ねぇじゃねぇかと思っちゃうんですよ。ケータイ小説とかでよくあるドラッグでハイになってる時にノリでドラム缶二個飲んでカレシ死んじゃったよ、二個目は鼻から飲んだよ、ドラッグに全身蝕まれたカレシは焼いたら骨はほとんど残ってなくてドラム缶だけ残っててでもアタシのお腹の中にはアナタが遺してくれた天使がいるから、その焼け残ったドラム缶に湯を汲んでアタシ産むよ、みたいなそういうのとあんま変わらんやないかと思ってしまうわけですよ。

もちろん、物語の都合上二つ以上の唐突をぶっ込むことそれ自体はそこまで禁忌ではないですよ。ただ、登場人物が選択を繰り返して答えを探す物語、そしてそういう登場人物の葛藤に寄り添うことで観る人に何かしら思わせる物語とは食い合わせが異常に悪いよな、てだけで。だって、こいつ話のために普通の男女だったら幸せになれるところ片方をおおかみおとこにするし、更に話を面白くするためにはおおかみおとこを意味もなく殺すんでしょ? じゃあその後、本の知識だけじゃ野菜がうまく育たないのもそいつがそうしたかったからだし、気心知れる転校生がやって来るのもそいつの都合でしょ、学校に馴染めなくて森に入り浸るのも本人がそういう性格だったからっていうよりもそういう風に動いてくれないと困るっていう向こうの都合じゃないですか。なーんか全部そういう風に見えてくるんで、別にそういう物語の組み立て方が嫌いというわけでもなくて、そうやって登場人物を使役するんだったら「さぁ、これを観てどう思うかは委ねます」みたいな「人それぞれだよね」みたいな「色々あるよね」みたいな着地はずるいだろと思うんすよね。俺は「色々ある」と受け取ったけど、あれが「かくあるべし」であるなら、なおさらてめぇ何がかくあるべしだテキトーにベリーハードモードを強いといて雑か、てなりそうな気もする。

別におおかみおとこ死んでもいいから、もし仮におおかみこども二人が「お父さんはなんかのたれ死んでゴミ収集車に回収されましたよ、なぜならおおかみだから」ってどこかのタイミングで知っていたのであればそれだけで僕は後半二人が別々の選択をしていくことをすごい自然に好意的に見れたんだろうなーとか思うんですよね。それもなしにゼロベースでまた二人はそれぞれに生きていきます、とか言われてもなんか物語始まったところから一つも前進してないわけで、そこで「どうですか?」て言われても「いやお前こそどうなの?」としか俺は言えないわけで。

まーなんかとりあえず行儀が悪いお話だったなーと思いました。以上です。

共感力に乏しい人間は意識的に相手の不自由に寄り添うほかない

あらすじ。

学生の頃当時同棲していた彼女(現嫁)が風邪ひいて寝込んでる時にコンビニで買ったご飯を届けるやいなや「よし、じゃあ俺にできることはもうこれくらいだから飲みに行くわ!」と言って部屋を後にしていたクズこと俺こと僕も見捨てられることなくそのままゴールインして今もなんとかかんとか結婚生活を営んでいます。

あらすじ終わり。

男性がなかなかできない妻への寄り添い方 | パパラボ

これ読んだんですけど。まぁ、結局夫婦論とか結婚論とかってコミュニケーション論であって、そういうのって詰まるところは程度問題で良い塩梅の匙加減を各々パートナー同士で探していければそれでいいよねってだけの話のはずなのに言語化するとなぜか極論に針が振れてしまいヌーの群れが殺到するみたいなありがちパターンですよね。ヌー! ヌー! って鳴きながらすごい土煙あげてやってくるヌー。たぶんヌー、ヌー! って鳴かないけど。

さて、人間だれしもが他人への欲求を抱えていてそれを適度に満たしてもらえないと辛いですし過剰に求めてしまうと関係がこじれてしまうのでなんとかコントロールしながら生きていくしかないなと今日喫煙所で一緒になった知らないおっちゃんも言ってたんですけど、その欲求を言い表すポピュラーな定型文のひとつとして「私がこれだけやったんだから、お前もこれだけしろ」というフレーズがあります。この欲求をベースにして生きてる人は、もちろん平常時は面倒見が良くて人に施すことができる素晴らしい人のように見えるのですが、欲求が満たされずに人に施すばかりになってこじらせてしまうと想像するにたやすいめんどくさい人になりがちです。記事のブコメで奥さんを批判的に捉えている人は恐らくそういうこじらせきった人物像を想定しているものと思われます。実際のところこの奥さんがどれくらいこじらせてるのか或いはこじらせてないのかは分かりませんが、ここで油断ならないのは他人からのこういう欲求を煙たく思っている側も実はまったく同じ構造の欲求を他人に抱いているということです。それは「俺はお前のことをこれだけ許容しているのだから、お前も俺のことを許容しろ」です。結局お互い自分の得意ジャンルに持ち込もうとしてるだけなんですね。一方は自分が相手のことを慮って気遣うことが得意なので他人にも気遣いを求めるし、もう一方はまぁ人それぞれだよねと割り切ることが得意なので他人にも割り切って許容することを求めるだけで、言ってることはお互い実はそんなに変わらないのです。もちろんこの二つの欲求は一人の中に同居可能ですし、どっちの欲求も全開にしたら駄目に決まってるしバランスだよねーって話になるのは当然なんですけれども、ここでは便宜上前者の傾向が強い人を「共感力が高い人」、後者の傾向が強い人を「共感力が低い人」と呼びたいと思います。そして俺が圧倒的に共感力が低い人間であることは自身にとっては今さら言わずもがなです。お前もそう思うよな、犬!

犬「わん!!」

僕どうもこの共感力の欠如が甚だしいようで、ほぼほぼ「折れた足をいじられると彼は痛いがわしは痛まない」と言い放ったカイジの兵藤を地で行く勢いで共感力が足りないんですよ。嫁が体調悪そうだとするじゃないですか。早く良くなって欲しいなぁとは思うんですよ。普通に。ただ、そのために今できることは然るべき対応をした後とにかく彼女が安静にしてることじゃないですか、彼女のために俺ができることは特にない、俺が心配して気を揉む揉まないは彼女の今後の体調に何の影響も及ぼさないと根っこの部分では今でも本気でそう思ってるわけです。

ただこの考え方だけじゃ良くないってことはわかってるんですよ。まず、もう書いてて自分で落ち込んでくるほど優しくないじゃないですか、嫌なやつじゃないですか。自分の考え方を分かりやすく説明したい時にカイジの兵藤の台詞を引用するって自分でやっててこれ意外とキツいですよ。俺ダメじゃん、みたいな。ナチュラルボーン共感力マシマシ人間には「冷たいやつだ」「人でなしめ」と罵られることもありますが、俺だって優しくなれるならなりたいよ。でも共感力が無いんだからしょうがないじゃん。こっちの体感的にはチビを槍玉に突き上げられるのとあんま変わんないんですよ。もう努力ではどうにもならんのですよ。感じないもんは感じない。

しかしそうは言っても人間ってやつは配られた手札で遣り繰りするほかないのです。共感力センサーが馬鹿になってるんです。これはもう揺るぎない事実です。そしてそれをそのまま放っておいて人と共同生活をしていると親密度ゲージがぐんぐん下がることは過去既に証明済みです。泣き言ばかり言っていても仕方がありません。なんとかこの無駄な親密度下がるイベントを回避するほかないのです(その無駄とか言ってるとこが駄目なんだけど)。つまり共感力センサーが正常に機能してないなら「運用でカバー」です。

要するにこの「運用でカバー」を実践して言語化した一例が元記事で使われていた「不自由に寄り添う」というフレーズだったのだろうな。と僕は思ってます。

僕なんかも見ての通りのザマなので、かなり意識的に不自由に寄り添う必要があるわけですね。例えばここまでで例にあげてる「嫁さんが体調悪かった時」ですけど、さすがに飲みに行くのはやめたよね。で、一応隣の部屋待機で何かしてて苦しそうにしてる気配とか起きた気配を感じたら声かけに行くくらいにしてるんだけど、この機会に元記事の話をちょっとしてみたら「それでもなかなか来てくれないよね」とのことで、これはたぶん恐らく嫁の方での「私しんどいんだから来てくれてもいいだろ」ラインをやすやす突破してるのに俺は「まぁ、体調不良っていうくらいなんだから呻き声くらいそりゃあげるよな」と解釈してる可能性があります。ここは今後要調整ですね。他にもついでに色々聴いてみたところ、家にいてもtwitterとかLINEとかやってるとちょっと良い気はしないとのことで、テレビとブログ書くのは基本セーフだけど内容による、本を読むのは大体セーフ、とのことだったので、これらを踏まえて考えるにうちの嫁さんは自分が苦しい辛いという情報しか受信できない状態にいるのに俺が外部の人間とのコミュニケーションで楽の感情を得るのはあまり感心しない、ということのようです。なるほど、この法則に照らし合わせると酒を飲みに行くのもバリバリアウトなのでツジツマがあっていいぞ! ツジツマ最高! そういうわけでそこに抵触すると良い気分はしないだけで特に俺が不自由でいなくてはならないというわけでもないので良かったです。特に本についてはノーマークというところで、彼女の中で本を読むという行為は快楽をむさぼる行為とは一線を画す内省的な行為でありかなり大目に見てもらえることがわかりました! 本が読めるならそれは不自由じゃない! 学べる喜び! わーい! というわけで、今後は嫁が体調を崩したら本を読みたいと思います! やったー!

みたいなめんどくさい手続きをですね、共感力の低い人間は都度都度やっていかないとあかんのですよ。一番いいのは「君が苦しんでるのに一人だけ外で飯食って酒飲んでも僕だっておいしくないよ」って心の底から思えるのがそりゃ最強ですよ。モテそうだし。でも神様は僕にその才をお与えにならなかったからね。「不自由に寄り添う」っていう極端な言い方の是非はともかくとして、何せ共感力なく直感でお察ししたりとかができないんでね、ひとつひとつ潰していくしかねーんだよなとかそんなことを思いました。はてなで育児ママのブログとか好んで読むけど、ぶっつけ本番効率悪いから予習してるみたいなところあるしな。

まー自分がそこらへん極端ってのもあって、自分が言われるとキツいところもあるので、感情を割り切るのが苦手な人に対しても「普通に考えたらわかるだろ」とかもなるべく言わないようにしたいもんですっていう、結局はバランスと歩み寄りだよね、っていう普通の話にしかならないんですけど。以上です。