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MIU404最終話のあの仕掛けへのモヤモヤ

ネタバレ全開だから気をつけてねー。

 

むしろ1話から最終話まで全部観てる人を想定読者として書くので細かい説明とか省きまくるからねー。ていう、タイトルでは「モヤモヤ」って書いてるけど1話から最終話までずっと最高のずっと100点満点だから。めちゃめちゃ面白いから全国民見ろ。今すぐパラビに登録しろ。2週間無料だから1日1話見ても全11話、無料期間中に全部見て解約できるから。ほら行った行った!完全に2020年のベストドラマ。その点について異論はないんだけど、最終回もまあ客観的に見たら100点で異論はないんだけど、主観的にはひとつどうしてもモヤモヤが拭えない点があってさ。

好みの問題っちゃ好みの問題だとは思うんだ。美味しかったんだけど、パクチー入ってたな、くらいの。人によっては全然気にならないだろうし人によってはこのパクチーが堪らなくいいんだよって人もいるだろうし、多くの人々は何も気にせずおいしくいただいてたんだと思うんだけど、俺はパクチーなしでも全然別に成立して変わらず美味しいなと思っただろうし、事前にパクチー抜きでって言えるんだったらパクチー抜きで食べたかった、そのパクチーの話を、俺は今からするんだよ!!

 

MIU404は本当に第一話からノンストップで展開していく王道バディもの刑事ドラマで2020年ど真ん中の社会的なものからいつの時代にも普遍的に存在する文学的人間的なものまで決して軽薄には取り扱うことのできないシリアスなテーマを複数同時進行的にこれでもかと盛り込みながらも本当にこの世界のどこかで生きているかのように魅力的で親しみやすいキャラクターたちの関係性が眩しく変容していく様を交えながら軽やかにあくまでポップに描く完全無敵のエンターテイメントで本当にこんなドラマが見れて良かったありがとう野木亜希子、ありがとう綾野剛、ありがとう星野源って感じの本当にすんばらしいドラマでした。

特に作品全体を貫く「人は自分の人生のすべてを自分の望む通りに選び取ることはできない、そして決して時間は元には戻らない」というテーマ、「どうしてこうなってしまった」という無念や失望、「あの時ああしていれば」という後悔と諦念、決して振り返り戻ることはできない背後遠くでちらつく「あったかもしれないもっと違った未来」へ恨めしそうに伸びていく影を引きずりながらそれでも人は前を向き灰色の世界の中、光を目指し走り続ける。そしてその一筋の光に手を伸ばし触れられた瞬間、灰色の世界はほんのりとパステルカラーに色づく。理不尽と不条理に溢れた世界における人間の無力さ弱さを決して安易にご都合主義的に解決することは無く、それでもそんな世界にあっても失われない人間の強さ、温かさ、希望を描くストーリーテリングはまさに野木亜希子の真骨頂という感じで毎週毎週興奮感動しっぱなしであった。

だからこそ、だからこそ、だからこそさあ、最終回で時間を巻き戻して未来を分岐させて「あったかもしれない未来」と「選び取った未来」の両方を見せちゃう演出ってどうなのよ!?

それができないからこそ、これまでの10話まで登場人物たちはみんな悩み足掻き苦しみしてきたわけじゃん。それを最終話だけは作家のさじ加減ひとつで時間を巻き戻して、BAD ENDをTRUE ENDに上書きすることが本当に最終回に相応しいイカした演出なのかが俺にはどうしてもわからないんだよね。最終話で例外的にそれをアリにしちゃったらさ、加々見は人を殺さなくて済んだかもしれないけど野木亜希子は助けなかったし、ガマさんも人を殺さなくて済んだかもしれないけど野木亜希子は助けなかったし、助けないまま失望の中でハムちゃんを助けられた方が伊吹と志摩の絆が強固になるしそれを野木亜希子が見たかったからガマさんはあんなことになっただけだし、で、伊吹と志摩が絶望の底に沈むところも見たいし伊吹と志摩が眩しい活躍するところもやっぱ両方見たいしきっと視聴者もそうだろうから両方見せちゃえみたいな野木亜希子の一存で時間が巻き戻って両ルートが描かれたって話になっちゃうし、あれ!?このドラマってそういう話だっけ!?て感じになったんだよね、俺は。俺いつから素敵な選TAXY見せられてたっけ!?みたいなね。

いや、わかるんだよ、やりたかったことはわかるし意図もわかる、そしてそこから受け取るべきメッセージもわかる。ただMIU404の核となっていた野木亜希子の作家性というやつは、真摯な眼差しで現代社会を見つめそこに生きる人々に真摯に想いを馳せることで今世の中に実際に起こっている様々をストーリーのために婉曲したり矮小化したり誇張しすぎたりすること無く、もしかしたら私/あなただったかもしれないこの同じ世界のどこかの誰かの人生の息遣いを丁寧に描きそれがまた視聴者一人ひとりの人生が抱えるさまざまな事情にも寄り添っているように感じさせることにも繋がる、そんな現代のリアルに切り込む大胆さと自分の描きたい結論のために取り扱う現実の有り様をねじ曲げようとはしない謙虚さとを同居させる絶妙なバランス感覚こそが彼女の持つ作家性でありMIU404という作品の妙だったと考えるんだよね。

そう考えた時に、あの最終話の演出は、なんか、こう「変な色気が出たな」って感じちゃったんだよね。

現代の世の中の理不尽さ、不条理さ、暴力性に晒されながら必死にもがく人々を丁寧に描いてきたドラマだったはずなのに、最後の最後でなぜか作品の創造主・神たる作家が物語に対して持つ特権性を持ち出してしまった。そのことにすげえモヤモヤする。物語を如何様にも動かすことができる作家の特権性って、本来は不条理で無慈悲で暴力的なものであるはずなんですよ。野木亜希子は「幸せな結末」のために、つまりは善いことのためにそれを使ったけれども、その手段として用いたあの演出手法っていうのはやっぱり暴力的で不条理なものなんですよ。何を言ってるんだかわからないって奴は映画『ファニーゲーム』を見ろ。

これは想像だけどね、コロナがなかったらたぶん「伊吹の夢」みたいな感じになってたんじゃないかなとは思う。あの九重くんからの連絡で目を覚ました時の綾野剛の演技を見ても、たぶんあれは伊吹の見た悪夢だったんだよって解釈の余地を残してることはわかる。それなら良かったんだけどね、それなら、志摩の過去回の演出でも「ありえたかもしれない」と勝手に志摩が妄想するシーンをまるで過去の回想(実際にあったこと)のように視聴者に思わせるかなり際どいミスリード狙いの演出があったので、夢なら全然スッといけたんだけど、時計を逆回転させちゃったらさ、それはもう完全に「作者による作為」以外のなにものでもないからさ、それまでMIU404対俺だったのが、あのシーンだけ野木亜希子対俺になったように感じて、三谷幸喜作品を見ていてふっと気を抜いてしまった瞬間にAKB48と一緒に踊る三谷幸喜を思い出してしまった瞬間の没入が解けてしまう感覚のような、なんかそういうものをあのシーンを見た瞬間に感じてしまったんだよな。

「分岐点」というキーワード自体は作品全体通してあったじゃん、てのもわかるんだけど、何が分岐点になったのか微妙によくわからないんだもん、TRUE ENDルートに入るキッカケは九重くんが陣馬さんへの熱い想いを語ったのをキッカケに陣馬さんが目を覚ましたことだけども、BAD ENDルートの九重くんと陣馬さんのあいだに熱いバディの絆がなかったのかというとそんなこともないから、やっぱしあの分岐演出は「作者の作為」としか解釈しようがないし、この作品に「作者の作為」の演出ってどうなんだろうなとやっぱりモヤモヤしたのであった。

もちろんこれを「蛇足」とか「画龍点睛を欠く」とかそこまで言うつもりはないんだよね。好みの問題、パクチーが入ってるか入ってないかの差ではあるんだけど。どうしても俺はなー、気になったもんだからさ、大好きなドラマで「最高!」って結論は変わらないんだけども、みんな大絶賛してるなか水を差すようでほんと申し訳ないんだけど、俺が書かなきゃ誰も書かなさそうだから書くんだよ、ブログってそういうもんだからさ。

あーあ!もうアレだな!もうどうせやるなら視聴者参加型まで振り抜いてた方が俺は納得できてたな!2020年東京オリンピックが始まったところでさ、マスコットのあの警察犬、ポリまる君?がひょこひょこひょこって歩きながらフレームインしてきてさ、「志摩は死んだし伊吹は久住を殺してしまったけれど日本人の念願である東京オリンピックは無事に始まったポリ!悲しいけど僕たちは前を向いて進んでいくしかないポリ!え〜、そんなの嫌ポリか〜?それじゃあみんな、dボタンを押して投票してくれポリ!このまま東京オリンピックのダイジェストを見たい人は赤、志摩と伊吹の活躍をもっと見たい人は青を押すポリ!僕がこのメロンパンを食べ終わったら投票終了ポリ!よーい、スタートポリ!」って言って、まるごとメロンパン号のテーマが流れるなかポリまる君がテレビ画面いっぱいのメロンパンに四方八方からかじりついて、そのあいだに視聴率10%全国1200万人のみんなが青ボタンを押しまくってそれで時間が巻き戻ったなら俺はその方が納得いったけどな。世の中的には絶対その方が怒られるんだろうけどな。でもあの演出がやってることって本質的にはそういうことよ?そういうことなのよ。

いいんだけどさ、いいんだよいいんだよ、ただたぶん1200万の視聴者のうちさすがに0.1%くらいはいるだろうと思う同じようなモヤモヤを抱えて「なんだこの説明できないモヤモヤは」って思ってる人に届け!て思って書いてるから。

あと、文句しか言ってないけど、面白かったのは本当にエクスキューズとかじゃなくて本当だから!そこだけはな!そこだけ頼むわ。とりあえずUDIラボチームも交えて映画かドラマ特別編やってくれ〜、シンプルに二期もやってくれ〜。最高だったんだ〜。

以上です。

 

MIU404のキャラクターネームについての一考察

ドラマ、MIU404が面白すぎる。とうとうパラビに入会してしまったのでとりあえず最終回までに全話3回づつくらい見直す気がする。兎に角このドラマ、綾野剛が格好良すぎて本当に格好いい。今まで見た実写ヒーローで一番くらいに魅了されている。まあ、そういう話はまた別の機会にするとして、眠いので今思いついたことを書く。

全部観てる人前提で書くので、観てないやつは今すぐパラビ登録して全話観ろ。損はしないから。

あのー、9話で菅田将暉演じる久住のセリフで「久住」は「クズを見捨てる」の「クズミ」やねんでーみたいなのあったじゃないですか、あれで、あーっと思って。

MIU404の主要キャラって、示唆的なネーミングではあるんですよね、みんな。

一番わかりやすいところで言えばもちろんダブル主人公の伊吹と志摩。伊吹はたとえば「生命の息吹」とかがパッと思い浮かぶし、対する相棒の志摩は特に伊吹のわかりやすさに引っ張られて「死」や「魔」などを連想させるとか当初から言われていた。その後バックボーンが明らかになった今となっては、久住の調子に合わせれば「死をまなざす」くらいが一番しっくり来るかもしれない。

そうやって考え始めると他の第4機捜メンバーにもなんらかの意味を見出せそうな気がして、パッと思いつく当てずっぽうだと桔梗は「希求」のダジャレかもしらないし、陣馬は「人馬」、九重は「心得」かもしれない。九重が一番苦しい気はしてるので他の対案は募集します。

で、「なるほど!そんな感じで各々のキャラクターネームはそれぞれのキャラを象徴しているんですね!」という話なのかというと、そうなんだけど、そうではなくて、むしろ「それだけじゃない」ことが示唆される作りになってるんじゃないかなー思って。

たとえば志摩は、たしかに相棒の死を間近でまなざしていて自分自身も投げやりなところがあって自身の死をもまなざしていたけれども伊吹のお陰で相棒の死の真相を知って伊吹と共に今生きている市井の人々のために何ができるかをもう一度追いかけ続けたいと思うように変わっていった。

理想を希求する桔梗は、現実もしっかり見据えていてしたたかだが、もちろん生まれながらに当たり前のように希求し続けられるわけではなくいつもギリギリのところで折れそうになりながら戦っている。桔梗の花言葉としては「気品」や「清楚」があるが、麻生久美子演じる桔梗はそういった一面はありつつもそれを自分のアイデンティティとは考えず、また死別した恋人の前では酒好きで洗濯物が苦手な話をしてたりとか、桔梗の花のイメージとはあまり結びつかない一面も持つ。

陣馬を「人馬」とするならば、それ自体は「一兵卒(ノンキャリ)の叩き上げ」である陣馬にぴったりのネーミングであるかもしれないが、そのように生きていた彼にも家族がいて、家族への愛情があり、キャリアである九重との友情に近い何かもあり、警察という組織の中の駒のひとつ(人馬)だけが彼の顔ではない。

九重が「心得」とするならば、それは警察のお題目みたいな綺麗事と驕った正義感によって作られた「心得」をただインストールされたエリートのお坊ちゃんとして彼は1話から登場したわけだけれども、彼もまた当然第4機捜の面々と数多もの事件に触れて違う顔を見せるようになっていく。

伊吹もまた常に人に生きる活力を与えられるわけではなく、挫けそうになる時もある。誰かの助けがなければ「生命の息吹」を意味する伊吹で在り続けることはできない。

つまり、MIU404のキャラクターのネーミングはある程度「その人を象徴する」ようにはなってはいるが、その象徴が彼らの全てではなく、それは彼らの持つ一側面にしかすぎないと物語っているように思えるのである。

第2話に登場した殺人犯の「加々見」は拉致された夫婦にとっては息子を映す鏡のように見えたし、彼の存在は夫婦の「信じたかった」という気持ちを映す鏡となったし、その上で彼は殺人犯だった。

そう考えると、これまでの縦軸の物語のキーパーソンとなった成川岳も「上に登る」「成り上がる」というイメージが連想されるものの人生のアップダウンを繰り返し、最終的には命を懸けて「他人を蹴落として他人の命をゴミのように捨ててまで成り上がりたくはない」という選択をした。

探したらこういうネーミングのレトリックはまだまだ出てきそうな気がする。

 

そして、これらのような人間が持つ多面性こそがこのMIU404という作品の主題でもある。どんな環境に生まれるか、誰と出会うか、それ次第で人の顔は、生き方は如何様にも変わる。自分が出会す他人の分岐点でその人の行先を良い方向に変えるよう介入することは決して容易いことではない、その困難さ、それを許さない世界の残酷さ醜悪さもMIU404は容赦なく描く。それでも信じ抜きたい。それでも、人は誰かを変えられると願いたい。それは他人の可能性を信じるということであり、自分の可能性を信じるということだ。

まるで運命のように、MIU404のキャラクターネームは自らサガを象徴するやうになっているが、名前がその人の全てを表すわけではない。名前が象徴するそれとは違う一面を、人は人との出逢いによって、人生の過程によって、いくらでも変わることができる。運命は変えられる。

そういう経緯がもし脚本にあるのであれば、ラスボスとなるであろう菅田将暉演じる久住が、自分の可能性も他人の可能性も何一つ信じず、名前の意味を自分で説明して、自分の生き様を一義的に規定したあのシーンがとてもしっくり来るのであった。

あと、書いてて気づいたんだけど、蒲郡さんのネーミング全然わからんと思ってたんですけど、ダジャレじゃなくて「どこにも引き返すタイミングも見当たらないまま復讐に死ぬまで取り憑かれた男」銭ゲバ蒲郡風太郎のオマージュだったら割と納得いくな。

以上です。

3歳児の息子が射幸心に取り憑かれる瞬間を目撃した

あのー、息子がおかげさまで3歳になりまして。よその子は早い言いますけど自分の子も早いやんけ言うてますけどもね。この前まで寝返りも満足にでけん思ってたもんが最近は毎日跳んだり跳ねたり挙句に人語まで操るようになってきててね、すげえはっきりとした口調で「お父さん!お母さん!」て言うから言われるたびに「なんやこいつなんぞ鬼退治でも行くんか」思いますよね。「おじいさん!おばあさん!僕は人々を苦しめる悪い鬼どもの両手両足の全爪を剥ぐ旅に出ようと思います!」の「おじいさん!おばあさん!」のテンションで「お父さん!お母さん!」って言うんでね、そのままその後に鬼退治に行くことを宣言するんちゃうかな思って、「お父さん!お母さん!僕は我々とは異なる肌の色を持つ鬼という種の両手両足の全爪を全個体から剥ぐ旅に出ようと思いますので、大義名分となる日本一と書いたのぼりを、手をつけずに僕名義の口座に貯金してくれている祖父母からのお年玉を元手に発注してください!!」って言い出すんちゃうかなくらいのハキハキした感じで「お父さん!お母さん!」言うんでね、よその子は早いけど自分の子も早いなー言うてますけどもね、レイシストに育たないようにいろいろ考えなあかんね思ってますけども。

ほんで3歳になったんでね、なんやかやプレゼントなんか買い与えたわけですけどね、その中の一つにね、今話題の藤井二冠も幼少期に買い与えられてたよーみたいな感じで話題にもなってた、なんかボールを転がす道を作るおもちゃみたいなのが世の中たくさんあるんですわ。藤井二冠が買い与えられてたのは、なんか木で出来たすげー高いやつだった思うんですけど、うちで買ったんはなんかプラスチックのね、スロープやらなんやらがたくさん100個くらい入っててね、それを組み合わせてボールがうまく転がっていくようなコースを作ろうねーみたいなおもちゃ。なんか今流行りのね、プログラミング的思考ってやつですね、プログラミング的思考、つまりあれですよね、上司とかに「これできる?」て言われた時に「技術的には可能です(現実的とは言ってない)」って強く言い切る胆力、要件や仕様がすげえフワフワしてる「こういうの作って欲しいんだけど作るとしたらいつまでにできそう?」に対して決していつまでとは言わずに「まあ、どこまでやるかですよね」と即答する胆力、つまりそういう胆力全般のことをプログラミング的思考って言うらしいんですけど、嫌われる勇気かな!?プログラミング的思考って要するに嫌われる勇気のことなのかな!?

まあ僕は人生の中で週刊少年ジャンプのみ履修してるド文系なんでよくわかんないんですけど、このボールを走らせるコースを自分で組み立てるおもちゃでプログラミング的思考が育まれるよって言われてるらしいんですよ。なんでこんなもので物怖じしない胆力が育まれるのか学のない僕にはよくわからないんで眉唾なんですけど、まあ胆力は育たないにしてもね、さまざまなパーツを組み合わせてボールの進むルートをコントロールしようとしてたらね、得たい結果から逆算しながらそれを実現することができるかもしれない手段となる数多もの選択肢を組み合わせてここに実際にボールを転がしたらどういう挙動になるだろうかという未来を考えながら物事を組み立てていく力くらいは養われるんじゃないかなーと思って、そういうおもちゃを買い与えたんですよ。

で、まあ、今はまだ3歳なんでね、息子が自力でそういうのを組み立てるのはまだ先かなーってことで僕がコースを作ってやってって遊び方になるわけなんですけども。

これがまー面白くて。俺が。

急カーブとかスロープとか、あと風車が回るカーブとか、ボールがジャンプする滑り台とか色んなパーツがあってね、パーツ全体の総数は100個くらいって決まってるので、その制限の中でいかに複雑でエキサイティングなコースを作るかってのがすげえ面白いの。高さがあった方が燃えるし、高さを作るにはパーツを積み上げる必要があるし、パーツを積み上げるにしてもその全てのパーツが「高さを積み上げる」だけではなくて「ボールの通り道」としての役割もきっちり果たさせてやりたいなーて思うからそうすると全体の構想をやっぱ最初に考えなくちゃならなくて、そういうこと考えながらパーツを組み立てていって「最終的にはボールを入れるスタートは何個で、この道を通るのはあのスタートから入ってくるボールで」みたいなことを考えながらやっていくのが超楽しいの。時には「あ、そっか!この組み立て方だとボールがこっちに逃げちゃうから思い通りに動かない!」みたいな気づきと反省も交えながら完成させたものを息子がキャッキャ言いながら遊んでくれたら本当に嬉しくてね、これでもう少し息子が大きくなったらこのコース作りの過程も一緒にやれるようになって、そうなったらめちゃめちゃ楽しいだろうなーと思って。もうそれだけで十分だよね、プログラミング的思考なんて身につかなくてもいい、それができればもうそれで十分だよなーなんて思いながら俺が楽しんで遊んでるんですけどもね。

ほんで、毎回コンセプトを持ってコースを作っていくなかで思いついたのでね、ボールが二手に分岐するパーツが二つあるんですよ。線路の切り替えスイッチみたいな感じで、ボールが一つ通るたびにスイッチして、一つ目のボールはAルート、次のボールはBルート、そしてまた次のボールはAルートっていう、そういう分岐が作れるパーツが二つあってね、これをうまく使ったら「ボールを入れる穴は一つだけ。そこから分岐があって、その一方のルートのその先には更に分岐があって、ボールを4つ入れたらそのうち3つは同じゴールに辿り着くんだけど残りの一つはスロープを超えて滑り台からジャンプしてめちゃめちゃエキサイティングなルートを経由して別のゴールに辿り着く」みたいなやつ作れるな思って。こりゃ息子も喜ぶぞ思って作ったったんですよ。

ほんで出来上がりを息子に与えてみたらね、これがもう息子も大興奮。ワーキャー騒ぎながらボールを次々にスタート地点に放り込んでいく。で、たまに、特別ルートに入るボールが出たら更に大興奮。ギャーギャー騒ぎながらボールの行く末を見守ってる。あー、楽しんでるなー作ってよかったなー思いながらそれを眺めてたら、まーそこからが長い。全然飽きない。どんだけお前やるねん言うくらいずーっとボールを投下し続けてる。3/4のボールが辿り着くゴールのボールを掬いあげてまた再投下し続けて1/4のゴールに全てのボールが辿り着いたらワーキャー騒いで、また全てのボールを再投下し始める。1/4の確率で発生する特別演出にはしゃぎながら一心不乱にボールの行く末を見守っている。それを何回か繰り返すうちになんか息子はだんだんイライラしてきて、ついには3/4のルートに入ったボールを奇声あげながら叩き出してゴールに辿り着く前にボールをルート遮って取り出してまたスタートから再投下してるちょっと待てこれパチカスやんけ!!!!!

こいつめちゃめちゃ射幸心煽られてるやんけ!!!

1/4で発生する高揚感に取り憑かれて頭おかしなってるやんけ!!!

あかんあかんこんなもんあかんぞ、パチカスやんけ、そう考えたら合点がいったわこいつ完全に台バンしとるぞ。よう見たらこいつなんか途中からめちゃめちゃチェーンスモーカーみたいな目つきしとるがな。あかんあかんあかん、お父さんとんでもないもん作ってもうた、とんだモンスター作ってもうた、クソ無法地帯YouTubeからすらも締め出されつつあるクソ人間破壊遊具作ってもうた、なんの気なしに作ったもんがこいつ初めての廃課金体験しとるわ。えらいこっちゃ。

言うてね、とりあえずヤバイ思って速攻バラシたったんですけどね。いやーびっくりした。人間怖〜。人間愚か〜。この3歳児人間やんけ、パチカスのおっさんみたいな挙動、3歳児もめちゃめちゃするやん。完全に三つ子の魂百までやんけ、こんなもんにヒートアップしてしまう人間の愚かさ怖いし利益のためにこれに人生を破壊される人間がいることをしながら商業展開し続ける資本主義怖〜っ!

いやほんまね、些細なエピソードからこの3歳児の小僧のね、これからの長い人生のどこかしこに隠れてる落とし穴のその一端、見ましたね。

世界怖〜、人間の浅はかさ怖〜!!

こんな感じで、人間はあかんものにハマるんやね、運と確率に依存してパチカスになるかもわからんしガチャ廃課金勢になるかもしれんし、欲しいのは高揚感やからね、累計プレイ時間がものを言うゲームで四六時中いつ見てもログインしてる廃人MMO勢になるかもしれんし、この俺の息子もそういう人の高揚感を刺激する悪魔にいつ取り憑かれるかわからんもんやね。もうあかんわ、プログラミング的思考なんか要らん、こんなおもちゃ怖すぎる怖すぎて怖すぎる、息子にはそんなんなって欲しくないからね。インスタントな高揚感に取り憑かれて時間や金を無駄にする人間には育って欲しくないから怖い怖い怖い、これはもうアレやな、運もプレイ時間も関係ない、己の腕と技量だけが試される弾幕縦シューやらせるしかないね。もうこうなったら成人なるまでは怒首領蜂だけやらせとこ。怒首領蜂さえプレイさせとけば、世界で頼れるのは自分の力量だけ、射幸心なんかにうつつを抜かさない、己の腕一本の研鑽を至上とする立派なプログラミング的思考を持った人間に育つはずや〜〜。

以上です。