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加害者を作るルールを野放しに加害者だけに憤る皆様へ

 

起きてしまったことは大変に悲しいことであるし、遺族の思うところももっともで、今後裁判の成り行き次第で自治会の人たちが賠償を支払うことになったとしてもそれはそれでまあ仕方のないことなのかもしれないとは思う。

しかしまあそれはそれで法廷の方でこれから進んでいく話であって、こういうことがありましたよってニュースを第三者として見聞きする我々が考えるべきことやるべきことというのは「自治体のやつら何てひどい奴らなんだ、障害者差別だ」とこの事件においていわゆる「加害者」の立場となった人々を非難して攻撃して溜飲を下げることではないんじゃないかなともこれに寄せられるインターネットのコメントたちを見て思ったのだった。というか、「溜飲を下げることが今やるべきことである」なんてシーンは本当のところはそんなシーン我々の人生にとって1秒たりともない。

なんだっけ、名前ド忘れしちゃったんだけどさ、あのー、白衣の人間の頭部に寄生してその人間の行動を自在に操って生きる生態の魚いるじゃん?たぶん想像なんだけど栄養も寄生してる人間の脳から直接吸い取ってるとおもうんだけど、なんだっけあの魚、名前が出てこない!「今日もお勤めギョ苦労であった!ギョ褒美に今日も楽しい魚たちの夢を見せてやろう」「あー!目を瞑ると視界いっぱいに美しく輝かしいイワシの群れが!ありがとうギャざいます!明日もあなた様のためにせいいっぱいギョ奉公させていただき、あーっ!あーっ!イワシがーっ!あーっ!!」の魚いるじゃないですか。なんだっけ、あの魚、名前が全然出てこない。

あの魚がなんかで言ってるのを聞いたことがあるんですが、大きく広い海ではそんなことないのに、小さな水槽の中では魚のなかでもいじめが発生する、と。せせこましく窮屈な水槽のなかではどういうわけか、なぜかいつもいじめが起こってしまう。それは、いじめっこを取り除いても変わらない。なぜかまた別のいじめっこが出てくるだけなのだ。だから水槽のなかに留まるのではなく、大きな広い海に出てみよう。そうしたら楽しいことがいっぱいありますよ。みたいなそんな内容だったと思います。

これはたしか「学校でいじめられてる人へ」というテーマでの文章だったと思いますが、いじめられている側の人たちを励ます以上に示唆的な話だなと思います。

それはつまり我々はせせこましく非効率的で合理性に欠けるルールの中では、誰もがいじめる側に回ってしまうかもしれないということです。僕もあなたも、誰でも、です。

人間は本来そんなに悪いやつじゃないと無邪気に信じてる部分は僕にも多少くらいはあって、日常のなかで誰かの優しさに触れてハッとしたり考えさせられることって生きていても少なくない。しかし同時に人に嫌な思いをさせられることももちろんたくさんあって、しかしそれは人間がどうしようもなく悪い生き物だというよりかは、その大半は弱さやずるさから来るのではないかと考えます。

どうしても誰かが損をしなくてはならないルール、個人個人がそれなりにランク付けをされて優先順位が生まれてそれが当たり前でそういうもんだとされてしまうルール、そういうルールを持つ世界に身を置かざるをえなくなった時に人間という仕方のないやつは、自分が割りを食わないためにずるいことをしてしまうのだろうと考えます。

人間は、余裕があれば無邪気に気まぐれに人に善意を施すし、余裕がなければ自分にはできてしまう他人への押しつけを我が身かわいさに手を染めてしまう、そんなような生き物なんだろうと考えます。

「それじゃ良くないよね」というムードというものはもちろんあって、そこに不当に割りを食う人間がいるのであればそれは是正されて然るべきで、そのためにみんな怒ろう声をあげようと世の中盛り上がっているんですが、そこで私たちが本当に何とかするべきものというのはなんなんだろうか、ということを僕はよく考えるんです。

僕はそこで闘うべき相手というのは、やっぱり、ルールや仕組みやシステムや、水槽そのものなんじゃないかと思うんですよね。自分の置かれている環境それ自体がフェアネスとは程遠く矛盾に溢れているなかで、個人個人の思想と行動だけにフェアネスを求めてしまうのはそれこそ水槽の側の論理に与してしまっているように思います。

冒頭の事件に戻りましょう、「できないなら何故できないのか、何ができないのか書け」の裏には「できる奴が無償でやればいい」という「誰も別に本当は全然やりたくないことを誰かにお互いに押しつけ合いながら回していこう」というひどく投げやりで全ての個々人を舐め腐った合理性に欠けるルールが隠れています。叩くべきはどっちかっていうと、こっちなんじゃないかと思うんですよね。

怒られずにはいられない「こんなことが許されて堪るか」とみんなが憤る事案には、だいたいいつだって「加害者」と「被害者」が存在していますが、それは結果でしかありません。多くの人々は不利益を被った、尊厳を傷つけられた被害者のことを思い、加害者を憎みますが、本当に憎むべきは人と人とを分断してそしてその一方が被害者、もう一方が加害者という結果に帰着させる悪しきルールなのではないかと僕は考えます。

そう考えない限り、その理不尽は繰り返されます。水槽からいじめっ子の魚を1匹取り除いたところで、また別の魚がいじめっ子になってしまうように。

 

自分にとって都合の悪い、自分ばかりが割りを食うルールばかりに人は目を向けてしまいがちですが、自分にとっては特にあっても困らない、むしろ快適なルールはありませんか。私も嫌々やってるけどなんとかやってるんだから他のみんなも嫌々そうしろよ、と思ってるルールはありませんか?そういうもの全てが水槽で、いじめっ子になる魚だって、実はそんなことを思っているだけなのかもしれませんね。

最後までギョ覧いただきありがとうございました。あーっ!あーーっ!!

以上です。

 

いじめられている君へ さかなクン「水槽の魚と似ている」に共感の輪

早生まれが不利はそうなんだろうけど、それを是正してどうなんのよ

「早生まれが学力や体力面で他の子どもに遅れを取りがちだけど、年齢が上がってもあまり解消されない」という現象を研究してみた - Togetter

おっす、3月生まれです。

僕はもう何せ運動がからっきしにダメでね、もう本当にダメダメ。泳げないし、逆上がりできないし、自転車も補助輪がないと乗れないし補助輪も左右ひとつずつじゃ足りないからもうキャタピラでいいじゃんくらいたくさん付けてる。スピンアックスのローラーくらいつけてる。中学生の時の体育の授業ではマット運動につけ跳び箱につけバスケットボールのレイアップシュートの練習につけ、とりあえず体育の先生は俺を指名して「みんなにお手本見せてやれ」って言って、できない俺のどんくさい模範演技で一笑いみたいなのが恒例で、あとマラソンでは1km走ったところで口から肺がまろび出て理科教師が「こりゃいいもん見た!みんな来い!」つって、きれいに肺がベロンと裏返ってまろび出てるからさ、肺の内側が見えるわけ。理科の先生がアインシュタインそっくりの白髪長髪白髭で常に雷を待ってそうな風貌だったんだけど、裏返ってまろび出た俺の肺を見て「これが肺胞だ!わかるか肺胞だ!」つって、それでみんなが肺を口からまろび出して朦朧としてる俺を取り囲んでハイホー!ハイホー!て手を繋いで輪になって踊ってくれて、その輪の回転速度がだいたい140km毎時くらいになったかなーてところで俺を抱きかかえる白髪長髪白髭に白衣の理科教師のつむじから突き出てる松の木にドーン!て落ちてさ、そこで1.21ジゴワットの電力が発生して2020年にタイムスリップしました14歳の僕が、34歳の俺に替わりましてこの文章を書いています。全裸です。タイムスリップと言えば全裸だな、というのがやっぱ西暦2000年からやってきた14歳の僕としてはあるので、全裸です。え、シュワちゃんが知事!?

それでなんでしたっけ、そうだ、早生まれは統計で見ると不利だって話でしたね。

いや、このようにね、僕も運動方面においては死ぬほど苦手意識があり、この苦手意識は3月生まれに起因するのかなと思うことはあります。3月生まれのせいにしたいと思うこともありますよ。でも、泳げる3月生まれも世の中全然いるからね、それはもう俺が泳げないだけなんよ、別に悪魔の実の3月生まれシリーズを食って海に嫌われたわけでは全然なくて、俺はただただ泳げないだけなんですわな。

運動以外だと、まー、僕も長所短所取り揃えた人間だけど、「早生まれのせいだ」と思ったことはないかなー。勉強はそこそこできてるし。

 

犬「わおん!わおん!わんわんわんわんわん!!!!!!」

 

おー、どうした犬!!

なんだ落雷か、あそこにおいでますは、あれは、俺!?高校3年生の18歳の俺なのか!?そうか、高校3年生のお前もまた、マラソンで口から肺をまろび出し140km毎時の速度でハイホーを踊られ、落雷に打たれ、そしてお前もまたこの2020年にやって来たのか。

どうも、ただ高校生の時の話をしたいだけなのに、なんかノリで一人称の主体をタイムスリップでやってきた中学生の俺にしてしまったせいで、高校生の俺を召喚せざるをえなくなってしまった俺です。これはPHSです。ボタンを押すと通話ができます。

高校生の俺になにが聞きたいんですかい?ああ、僕ですか?僕は3月生まれですけど、勉強はなんとなく昔からできましてねぇ、地元でトップの高校にノリで進学したんですけど、そこでは学力という観点においては落ちぶれに落ちぶれました。400人くらい学年にいる中で、下から数えて10番20番、それくらいですかねぇ。おっとかみなりバトンタッチ。

現役の時は歯が立ちませんで、親が許容するような水準の大学には箸にも棒にも引っかかりませんで、浪人して、なんとかそこそこには恥ずかしくない大学には潜り込みました。はいバトンタッチ現代に戻りまーす。

どうも34歳の僕です、子供が先日3歳になりまして、子供は7月生まれなんですけど、3歳は歯がたくさん生えてます。

僕がなにを言いたかったかというとですね、早生まれが統計上不利だって話自体はもっともだと思うんです。僕も運動への苦手意識を持ってるし、3月生まれじゃなかったらクロールとかできたのかなー、あの「んぱぁっ!」て顔できたのかなーと思わないこともない。でも、俺がクロールできないのって絶対に「3月生まれだから」ではないよねー?て話なんです。実際運動以外では意識することほとんどないしね。

これは、件の統計を「そんなんおかしい!」て喧嘩売りたいって話ではありません。そういうのはあるんだろうね、統計として出てる通り、とは思うんです。運動についての苦手意識を考えた時に「3月生まれ」は頭をもたげるのはそれはそうだし。だけど、まー、じゃあ俺が4月に生まれてたらバリバリ運動できてたか?っていうと全くそんな気はしないよね。俺の身体のことは俺が一番良く知っている。俺のチンポの亀頭の色は、カラーコードでいうと#7cfc00。ピッコロか!!

早生まれは統計的にも間違いなく不利だとして、まあ統計的には実際そうなんだろうけど、それって下方修正みたいな方向で不利だと思うんだよね。3月生まれごときで「届かない」んだったら、それが4月生まれだったとしてもたかが知れてる高さにしか届かないんじゃないかと思う。どんなジャンルにおいてもね。

だって、俺の得意なことにおいて「くそー、俺が早生まれでさえなければ」なんて思ったことないもん。俺の苦手なもんは、どのみち苦手で、しょせん4月に生まれたところで大したスーパースターにはなれなかったことでしょう。

俺は生まれ月なんか関係なく戦える、そういうジャンルがあったからいいけど、それが無い奴はどうしたらいいの?と思うかもしれないが、それもやっぱ変な話なんだよ。そういう話になれば、4月生まれで負けてる奴だってなんぼでもいる。

統計のうえで、早生まれが負けてるのが真だったとしても、それは本当に統計だけの話なんだよ。早生まれはやっぱり負けやすいんだって統計見て落ち込んでる3月生まれの隣には、統計的には勝てるはずなのに勝ててない4月生まれがいると思うんよな。みなさんは、ボンクラな4月生まれを見たことがないんですか?きっとそんなことはないはずです。

繰り返すに、俺は統計を否定しないです。早生まれは色々不利なんでしょう、身に覚えがある。

しかし、その不利は、やっぱり誤差でしょう。その誤差を是正しなくてはならんと結論付ける冒頭のリンク先はやっぱし癪に触りますね。あれって「自己責任」を突きつけられた時の言い訳をできるだけ排除したいようにしか見えません。4月生まれでも3月生まれでも、勉強できないやつはできないし、運動できないやつはできないでしょうな。その先には、勤め先がどうのとか年収がどうのとかになってくるんでしょうか。統計上早生まれの方が平均年収が低い?それがなんなんですか?年収が低い4月生まれはいないんですか?いないわけないでしょ。

ここらへんの話をすっ飛ばして、早生まれの不利を是正しようなんて結論づけられてもね、もっと先に考えることあるだろ、としか言えませんよ。数字いじくって遊んで、楽しそうだなとしか思いません。

なんか、フェアネスを叫ぶのは悪いことじゃないんかもしれませんけどね、気持ちよく自己責任論を叫ぶためにやってないか?と思ってしまった。3月生まれは別に不利じゃないから、お前がダメなのはお前のせい、て4月生まれに言うのと同じように言いたいだけちゃうんか、と。

平均でものを考えるのって、まあ楽しそうではあるよね。自分が平均以下になるわけがないと思ってる奴の娯楽だね。

以上、なんらかのジゴワットで馳せ参じた声帯が尿道にある0歳のズイショさんでした。バブー。

医師による嘱託殺人を批判することは簡単で些末なことなのだろう

難病に苦しんで「死にたい」と考えている人がいて、ある医師がその人を同意のもとに殺したという事件が起こったらしい。

その医師はもともと優生思想的な「無駄な命は殺してしまえ、生かすな」的な考え方を持っていたそうだ。

当然この医師はその行いが発覚すると嘱託殺人の容疑で逮捕されて、その行いと抱えていた思想が白日の元に晒された結果、インターネットで多くの人に批判されている。「批判されている」と容疑者の医師を主語にする必要もないかもしれない、多くの人々が、怒り、嘆いている。

その一連の流れを眺めていて思ったんだが、これはなかなか、昨今の人々が怒り嘆く日々のあれやこれやの事象をまるっと圧縮して、極めてシンプルに提示した一件になっているのかなと思った。

「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いそれ自体に向き合うことは途轍もなく簡単で、ネプリーグの最初の15分くらい簡単だ。Aがたとえば今回のような、優生思想に基づく嘱託殺人であればなおさら、仮にウォッカを一気飲みしてべろんべろんになってるホリケンであろうともラクショーに「Aはするべきではない」と答えられる。Aの是々非々に断固としたNO(あるいはYES)を突きつけることはあまりに呆気なく容易い。その容易さはあるいは心地良くすらあるのかもしれない。

それでは、その「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いに何らかのアンサーを出したとして、さらにそのアンサー自体が間違っていなかったとして、じゃあそれで何もかもが解決解決のめでたしめでたしになるだろうかと考えるといやそんなことはない。全然ない。まずそもそも、その問いは何故発せられたのか、「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いの裏には常に「たとえZであったとしても」という、問いそのものを発生させる前提であり現実であり実態が存在していて、そのZこそが本来我々が向き合うべき課題であり、そのZを取り除くことさえできていればそもそも「Aをするべきか、Aをするべきではないか」などという愚問は発生しなかったはずなのになと僕は愚直に考えるのだ。

このZという問題は常に厄介で答えはなく悩ましい。誰にとっても正気を保ち続けながら向き合うには明らかに等しく荷が重く、逃げ出したく、逃げられる人の多くはその思いのままに逃げ出し、何らかの事情で逃げ出せなかった人々だけが取り残される。そしてZという本質の問題から目を逸らし蜘蛛の子を散らしたように逃げ果せZと目が合わないように生き存える人々が、逃げそびれ取り残された彼らの終着点のAを「Aをするべきか、Aをするべきではないか」で語るばかりなのだ。

難病患者を同意のもとに殺してはいけないし、小学校に乗り込んで児童を殺しまくってはいけないし、秋葉原歩行者天国にトラックで突っ込んではいけないし、障害者施設に乗り込んで障害者を殺しまくってはいけないし、アニメ制作会社に火をつけてはいけない。全部全部、痛く当たり前のことだ。

しかし、その背後にあるZに目を向けてどうにかしない限り、その当たり前にやってはいけないことはきっとこの先も起こり続けるだろう。

Aという自己中心的あるいは独善的な悪意を否定することは心地よく容易いが、Zという背後に潜む問題から目を逸らしたままただAを否定するそれだけでは、きっとそれもあなたが心底に憎むAと同様に自己中心的で独善的なだけなのかもしれない。

「同意のもとに殺してほしい死にたい人がいた」という、これ以上もなくシンプルなZがまざまざと報道され語られるこの事件を受けて、多くの人々によってAではなくZが語られる世界を望むし、それが果たされない世界の先には誰もが己の抱えるZを噛み殺して生きるやるせない未来しかないなとも思う。

以上です。