←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

平田オリザの言い分と、コロナ禍への私見

あれはまだ2月だったか、野田秀樹が演劇への自粛要請への反論的な声明を出していて方々から非難を浴びていて、その時は俺もまだ野田秀樹を擁護する立場だったのである。他のどの業界もまだ事実上ものんびりのびのびやっていた時期であり(もちろん見えない先行きに誰も彼もがやきもきしていたことは間違いがない)、その中で「どうせ中止にしたって誰もそこまで困りはしないでしょ」って調子で劇場とかライブハウスとかばっかり自粛を要請されて、「ちょっと待ってくれよ、こっちだってそれで食ってるんだよ、そこで生活してる人間だっているんだよ」って話なんだろうなと思ったし、だからまあ外からは偉そうに見えるところもあったかも知らんが、俺は野田秀樹の発したあの声明を叩く側にはようならんかったな。

そして野田秀樹が叩かれてた時に、野田秀樹の過激とも取られる声明とそれに対する反感にTwitterでどうどうと中立を探していた平田オリザが今、このタイミングでオピニオンを発信してそれで怒られているのかはなかなか庇い立てがしにくく、なんつーか、苦虫を噛み潰すような面持ちの俺こと僕です。

野田秀樹が声明を出したあの時とは、4月も終わるあのタイミングでは何もかもが本当に違っている。野田秀樹の声明を拙速と非難することはできるかもしれないが、それで言えば平田オリザがあのタイミングで出したあのオピニオンはあまりに拙遅だった。困っているのはなにも芸術ばかりではない。誰も彼もが困っている。そういう局面に世界は差し迫っている。

その中で殊更に文化芸術の重要性、有意義性?を語ることになんの意味があるのか甚だ疑問だった。生産業への理解が足りないとかそういう話ではない。演劇業界では役者なんかは役者だけで食えてる人はきっとごく一部で、あとはたとえばわかりやすいところでは飲食とかそんなところでバイトもしながら食いつないでいるんだろうと思う。バイトの方もこの情勢だろうときっとままならないだろうし、大変なんだと思う。一方で、フリーランスとして大道具だったり音響だったり照明だったり制作だったりで色んな劇団の公演を同時並行的に支える人たちもたぶん少なくはなくて、本当に「裏方」としてそれ一本でやってる人ってのが世の中にはごく一部に存在していて、そういう奴らの口に糊する生活が自粛要請によって破綻することに心苦しくて、あんなことを言ってるんだろうなということも、まあ別に想像はつくのだ。

とは言え、とは言えだ。

そんな彼らを思ったとして、芸術や文化の崇高さを語るのが今するべきなのかが本当に俺の中で怪しい。

たとえば、今、困窮してるたこ焼き屋がいたとして(当然いる)、彼らは殊更に「たこ焼きは素晴らしい文化だから、たこ焼き屋を補償しろ」と叫ぶだろうか、叫ばないだろうと思う。「ただの飲食業」として、「もうちょっとどうにかしてくれよ」と叫ぶだろう。俺は、文化芸術の人らにも、叫びたいならそう叫んでくれよ、と思うのだった。

ここからは政治の話になるのだが、俺は、個人を救うやり方を探してくれよ、と思っている。職業の貴賎もなにも関係なく、困ってる人たちが生き長らえるそういう方向でやろうよ、と思っている。

俺は、自分の結婚式で、フリーランスの「結婚式専門のカメラマン」に発注して撮ってもらったんだけど、平田オリザは絶対そういうカメラマンのことを知らずに喋ってるんだろうなと思ったもんな。そういうのやめようよってすげえ思うもんな。

「みんな苦しい」ということを、どう解釈して、どう立ち会うかなんだと思う。それを実践する土壌が今全然ない。憎しみあうばかりで。苦しいな。

以上です。

コロナ禍日記に

息子の髪を切る用のちっちぇえ梳きバサミが家にあったのでテキトーに髪をめちゃめちゃに切った。なんの計画性もなくざくざくと切りまくってやった。右の方が長いなと思えば左側に更にハサミを入れて左が短くなりすぎたと思ったら右に再びハサミを入れるなんてことを無軌道に繰り返しやっているとだいぶサッパリはしたものの全体的に短いところと側頭部は左右ともに長いところ短いところがまだらで完全にカラスの大切にしてるとてもピカピカ光る何かを奪おうとして失敗した人みたいになってしまった。髪を切るのに失敗した結果の比喩に失敗した人を登場させる必要ってあるのか。しかし正面から見ればなんとなくイケてる感じではあるのでどうせZOOMでしか人と会う予定はないし、まぁいっか。俺の頭を叩けばきっと文明開化の音がする。3オクターブは出る。

2年くらい前からもういい歳のおっさんだし美容院じゃなくて床屋でいいだろとなって、とぼけたマスターが切ってくれる同じ店にずっと月一のペースで通っていた。初めて行って髪を切り終えた時に「なんか(ワックスとか)つける?」って聞いてきたので「じゃあ、なんかつけてください」と答えると、「犬用のリボンでええかな?」と言ってくるので「じゃあ三つ編みにしてください」と乗っかりボケをしてやったらそれがマスター的に大層愉快だったらしく、その後このやりとりが恒例になってしまった。たとえば12月ならマスターが「そういやクリスマスツリーの電飾余ってたと思うわ」と言うので僕が「ほんならちっちゃい靴下のイヤリングも頼みますわ」と返す。そんなやりとりを月一で繰り返していた。

最後にその店に行ったのは3月の最初の土曜日で髪を切ってもらっている最中も新型コロナの情勢について言葉通りの床屋談義を世間話に、切り終わった時には「なんかつける?」に対してもはや俺が食い気味で「じゃあ五人囃子乗せてください」と返答していたが、会計を終わらせた後にマスターは「ほなら、また1ヶ月後にお互い生きて会おうや」と言って僕を送り出してくれた。

4月を前に志村けんが死に緊急事態宣言が発動して自粛ムードが加速して俺の仕事も完全リモートワークに移行した。別に新型コロナにかかってしまったって死にゃあしないだろうと高を括っていることには今でも変わりはないが、必要最低限の外出しかしてないならまだしも心当たりがあってはなんとなく間抜けで後悔が残るような気がして、むしろ床屋に行った後に感染が発覚してしまってはわからんけど保健所やらなんやらがその床屋にやってきて逆に迷惑をかけてしまうのではないかとも思い、まあ、とどのつまり、マスターの1ヶ月後にまた会おうと言ってくれた約束を俺はぶっちしたのであった。自分で髪を切っている最中もそんなマスターとの最後のやりとりを思い出しては、なんだか申し訳ない気持ちになった。月にたったカットのみ2500円を落とすしょぼい客でしかないのだが、そんな俺みたいな客どもの集積がマスターの生活を支えていたのだろうと考えると、この疫病は人の命を奪う以上に世界にとって大きな爪痕を残すのだろうと改めて実感が湧く。できることならば自分で切り散らかしたぼさぼさの頭で再びお店に行って「なんやこれめちゃめちゃやん」とマスターに悪態を突かれながら整髪してもらい、「なんかつける?」と言われるのに「大きなリボンが似合うポニーテールに結んでください」と返し、「じゃあまた来月も」と挨拶をして別れたいものだが、それがいつになるのかその頃あの店はまだ店として存在しているのか、それはもう誰にもわからない。

義理の父は30年来長らくずっと個人タクシーをやっているのだがこのご時世では商売はもうさっぱり上がったりらしく、早々に営業を畳んでこのコロナ禍を人生の遅れてやってきた夏休みと割り切って毎日を謳歌しているそうだ。「わしはチャンスには弱いがピンチには強いから大丈夫や」と語っていたそうで、いつもはのらりくらりごまかしながらぼんやり生きておいて攻め時になると途端に突然生き生きし始める俺みたいなタイプの人間には到底思いつかないフレーズだなと思い、小心者でセッカチで協調性にやや欠けるが植物や動物や日々のルーチンやを愛でながらマイペースに毎日を生きる義父が言う、だからこその説得力に感心した。

義父はハゲを割り切ってスキンヘッドとして生きる道を選んでおり、いつもシェーバーで頭を整えている。俺が感傷に浸りながら髪を切っている一方で、義父は一切合切がいつもどおりのまま今日も頭にシェーバーを当てているのだろうと思う。

人の多様性とは人類という種があらゆる環境であっても誰かは生き残るようにするための遺伝子の生存戦略なのだろうとは平時からまことしやかに語られていたが、今この状況においてはまんざらなかなか馬鹿にできない論であるよなとしみじみ思う。

それでも誰も彼もまるっとみんな生き残ってはくれまいかと俺に思わせる俺の遺伝子が、今この世界において淘汰されるべき遺伝子かそうでないかは、それもやはりもう誰にもわからない。

コロナ禍日記いち

テレビっ子なので普段から録画している番組がたくさんあってそれはすべて試聴する義務を自分に課してるわけではなく興味があれば見るみたいな感じなのでどれが見たいか見ないで録画消去するかみたいな選別タイムが時たまに必要になる。それで昨日だかにチェックしていたのだけど特にドキュメンタリーや対談番組や思考深掘り系の番組なんかは特にだが、「新型コロナ以前」の今の我々の文脈を持たないものはなんとなく物足りなく感じてしまいすべて見ないで消去してしまった。NHKの欲望の時代の哲学2020とか絶対面白いのはわかってるんだけど、今の時代を踏まえて自分の中に落とし込むこともできるのだろうけど。番組自体が新型コロナを踏まえていないことにちょっと寂しくなってしまいそうなので消去してしまった。番組はきっと面白いし何も悪くない。ただ、新型コロナ以前、新型コロナ以後というあちら側とこちら側がただ僕たちの眼前に明らかにあり、それを僕は両の目で睨みつけているということだ。ねほりんぱほりんの「震災で家族が行方不明になった人」回はまだ見てないけど消してない。

新型コロナ以前以後の話でいうと、「現代」を舞台にした物語をどう描いていくべきかみたいな問題も今時点で多くの人が向き合っているのだろうなと思う。携帯電話が当たり前になった世界では作劇が難しくなったなんて話もそういえば当時はあった。人と人とが群れて顔を合わせて当たり前の虚構の世界を描き続けるか、現実に即したソーシャルディスタンスの中での群像劇を模索するのか、まあ悩ましいっちゃ悩ましい。とは言ってはみたものの、サザエさんの家にはエアコンがないしきっと来週もサブちゃんは来る。それでいいじゃないかと思っている。どうせフィクションなんだしみんな好きにすればいいじゃん、と思う。コロナを踏まえた情勢下の設定で面白い物語をやりたいやつはそうすればいいし、少し前みたいに人と人とが顔を突き合わせるのが当たり前の世界を舞台にしたいやつはそうすればいい。そしてどさくさに紛れて相手に何か気にくわないことがあればお互いフランクに相手の頭を石で破り、そしたらそこからむくむくと大樹が生えて、そいつの感情の数だけ実が成って、実の中からある特定の感情だけを宿したそいつがぽこぽこと生まれて、みんなで話し合って食べあって仲直りするような世界観も当たり前に存在するようになってしまえばいい。

せっかく当たり前がガラガラと崩れてしまったのだから、もう新しい当たり前なんかいらない。右も左もはちゃめちゃでありえないままでも、隣人が隣人のままでいるならばそれでいい。

リモートワークはそれなりに支障がないが、思考が「家でもちゃんと仕事するぞ!」になっていて、いかにデスクワークをこなすかに偏ってしまい少し疲れてしまっている自分に気付いて考え中だ。よく考えたら出社してる時もマネジメントとか音頭取りとかがメインでそんなデスクワークとかしてなかった。もっとおちゃらけたリモートワークのあり方を模索する必要がある。

ZOOM飲みは楽しいが、寝る直前までやれてしまうのが問題だ。「酒」という言葉と「自制心」という言葉とは対消滅するので対策が難しい。予め指定している時間になったら俺に痺れ矢を撃ち込んでくれるエルフを募集したい。

この前はインターネットで交友関係がある人らと酒を飲んで話した。前に一度東京で酒を飲み交わした人らだ。またそのうちに飲みたいなと思いつつ、東京に出向くことは少なくなかったものの、生憎に僕の体が一つなので会えずにいた人がたくさんいる。もちろん東京以外にもたくさんいる。そういう人たちとお手軽に会えるようになってしまった。以前の世界であれば、ZOOM飲みのお誘いなど寂しがり屋も甚だしくとても主催なんかできなかったろうが世界は変わってしまった。直に会わなくてもオンラインで顔を突き合わせるハードルがめちゃめちゃに下がってしまったことで、感染症の流行が終わった後も「わざわざ会う」ことの意味はきっとまた変わってくるのだろう。アフターコロナの世界には、アフターコロナ以前の価値観はきっと厳密には全く残らないのだろう。

日記を書くことにした。1週間とかに一度くらい。タイトルはコロナ禍日記で、きっとコロナの話題はどんどん減っていく。きっと内容はアフターコロナの世界のまま。