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現代ポリコレの囚人のジレンマ

1.自身の考え方に改めるべき点はないか常に内省的であることに努め、異なる意見にはまず否定することなく耳を傾けられるよう心がける。

2.問題の原因と問題解決の責任は基本的に他者の側にあるはずだという前提に立ち、自身の意見の方がよりスマートで理にかなっていると考える。

 

かつて、Aは2のように考えるのが当然でBは1のように考えるのが当然だと考えられる社会があり、その社会ではAの生きづらさは10であり、Bの生きづらさは100であった。

長らくそれは当然のことで仕方のないことであると考えられるか、Bの生きづらさはもっと小さいものだと見積もられていた。あるいはその当時は実際にもっと小さいものであったかもしれない。

時代と共に社会のあり方が変容していく中で、この両者の生きづらさの格差に問題を感じる人々がBの中に現れた。彼らは1ではなく2の理念を選択するようになった。

その結果、Aが2を選択し、Bが1を迫られる社会におけるAの生きづらさは10でありBの生きづらさが100であることがだんどんと明らかになっていった。

そしてその過程において、この状況における生きづらさの数値化には端から誤りがあり、Aの生きづらさは実際には100であり、Bは1000も生きづらいのではないかとの見解も見えるようになった。

Bの1000の生きづらさを小さくするべく、2の考えに転ずるBの数は増えていった。そのB2の考えに触れ、A2の生きづらさにも気づき、1に転向するAも徐々にその数を増やしていった。

その結果、また時代の経過もあり、Aの生きづらさは100くらいであり、Bの生きづらさは200くらいの状況に落ち着いたとする。AもBも1を選ぶ人もいれば2を選ぶ人もいる。また、Aの生きづらさについてもBの生きづらさについても、その見積もりは個々人にとってバラバラである。Bは最早、50の生きづらさしか持っていないと考えるAもいれば、依然としてAの生きづらさは10だと考えるBもいる。

その過程ではおもしろいことに個別の事例として、AとBいずれもが1を選択した場合、その両者の関係性においてはそれぞれの生きづらさは最小の10となり、もっとも生きづらさの総量が小さくなるというケースがあちこちで散見されるようにもなった。

それに気付いた各々は、社会全体としてAもBもいずれも1を選択するのが最も生きやすい世の中を形作ることになるのではないかと考えるようになった。Aの生きづらさが10で、Bの生きづらさも10のとても穏やかな世界だ。

しかし、それを目指す過程においては、AにもBにも頑なに2の理念を曲げようとはしない人々がわずかばかりか或いは少なからずか、存在した。

誰しもが1の世界を希求するAの人々とBの人々はそれぞれがBの彼らとAの彼らをなんとか説得しようと懐柔しようと試みたが、それでも彼らは頑なだった。そして誰しもが1の世界を希求する彼らもまた、頑なな彼らに変容を求めるあまり、再び2へと転嫁していった。

かくして、社会は誰しもが2を希求する世界に落ち着きつつある。目下の目標はAの生きづらさもBの生きづらさもフィフティーフィフティーに落ち着く平等な世界だ。

それを牽引するは己には2を許し、他方に1を求め、己の生きづらさを最小の10にして他方に100の生きづらさを強いたいAあるいはBだ。

しかし彼らには残念だろうが、もうそんな前時代的な状況は発生しえない。

誰しもが噛み締めて学習した。誰もそんな押し付けがましい1はもう受け入れない。誰もが主体的に2を選択し、圧倒的な不平等が是認される時代はもう再びはやってこない。

ただ社会は個々人の思想をないまぜにしながらAの生きづらさとBの生きづらさが50なり100なり200なり何かしら平等なフィフティーフィフティーを目指すばかりだ。きっとこの先には不平等など存在しえない優しい世界が大きく口を開けて待っている。めでたしめでたし。

どうか、あなたと隣人とのあいだにA1B1の穏やかな日常が紡がれますよう。

以上です。

鴻上尚史の「いけそうな女を狙え」炎上、誤解かも説

  

えーと、普段は軽妙洒脱な回答で絶賛されてる鴻上尚史の人生相談がなんか燃えてて、もともと劇作家としての鴻上尚史(の作品)がそんなに好みじゃない僕は「ほーらそんなありがたがるような人でもないんだって」と思って横目に眺めてたんですが、内容を見てみるとあれれ?と掲題のようなことを思ったので端的にしたためます。

お話してる通り、僕は鴻上尚史の作品があんまり好きじゃないのでそれはつまりその作家の人間性があんまり好きじゃないことに直結するためとくに鴻上尚史を擁護したい意思はさらさらなく、どちらかというと普段は鴻上尚史の人生相談に何かしらの希望を感じている人が今回ので鴻上尚史に失望してしまい、そこからひいては世界に失望・絶望してしまっていたとして、もしそれが誤解によるものであれば気の毒だなと思い、最初から鴻上尚史に何も期待してないので特に失望もしていない僕が筆を取った次第です。

なので、以下を読んで「なるほど、誤解だったかもしれない」と思ってもう一度鴻上尚史の言わんとしてることを考え直すならそれもよし「いや、誤解ではない」と失望し続けるならそれもよし、各自好きにしてください、って感じです。

 

では始めます。

 

鴻上尚史の論建てを段落に分けて考えると問題になってる前半部は以下のような構成になるんじゃないかと僕には読めたんですよね。

 

1.スマートな大学生のなり方を野球のうまい大学生に置き換えてみよう。野球がうまいフリじゃなくて本当にうまくなるしかないのはわかるよね?

 

2.うまくなるためにはとにかく練習するしかないよね、バッターボックスにたくさん立つしかないのはわかるよね?

 

3.まずは大学のクラスをバッティングセンターに置き換えて考えてみよう。

 

4.それじゃうまくいかなさそうなことがわかったね、ではどうしようか?サークルかバイトか、来る球を選べない、女の子とのおしゃべりが主目的じゃない、メインの目的を遂行するためには嫌でも女の子とも喋らなくてはならない環境に飛び込もう。

 

その後の話は、本題ではないので割愛しますが、だいたいこんな感じなのではないでしょうか。

 

はい、で問題になってる箇所、まずはそのセンテンス部分だけ抜きとってみましょう。

 

 そういう時は、クラスで「男性と会話することに怯えている女性」を見つけましょう。

 ポンプ君と真逆で「6年間、女子校でした。男性とどう話していいか、まったく分かりません」なんて人がいるかもしれません。

 

で、これに対して「舐めとんのか」とみんなが怒ってるわけですけど、このセンテンスは段落構成で見てみると、「3.まずは大学のクラスをバッティングセンターに置き換えて考えてみよう」の一部になるわけですけど、ではこの3つ目の段落を全文引用してみましょう。

 

 バッティング・センターに行ったことはありますか? バッティング・センターでは、球の速度によって、バッター・ボックスが分かれています。

 90キロとか100キロとか120キロとかです。

 4月、大学のクラスでいきなり可愛い女の子に話しかけるなんてのは、130キロぐらいのバッター・ボックスに立つことです。バットにボールが当たるわけがありません。そもそも、130キロは怖いです。

 そういう時は、クラスで「男性と会話することに怯えている女性」を見つけましょう。

 ポンプ君と真逆で「6年間、女子校でした。男性とどう話していいか、まったく分かりません」なんて人がいるかもしれません。
 
 いたら、その女性は、だいたい80キロぐらいです。

 でもまあ、通常は、クラスには3割打者が何人かいます。130キロの剛速球に慣れた男達が、ポンポン、かっ飛ばしてしまいます。

 ですから、一般的なバッター・ボックスは、サークルかバイトですね。ここで、間違っても男しかいないサークルとか、男しかいないバイトを選ばないように。それは、青春の自殺行為です。

 

さて、いかがでしょうか?「80キロの女を狙いにいく」という戦法を、鴻上尚史は本当にポンプくんに推奨しているように読めるでしょうか?

僕には「だいたい女馴れしてない男って、こういう思考に陥りがちだけど、そんなことしたって相手にされるのは結局もっとイケてる女慣れした男なんだよね。だからやめとけよ」というアドバイスにも読めるのですがどうでしょう?

そしてこのあとには「話しかける女性相手を自分で選んでられる余裕なんかない環境に飛び込め」という論が展開されとりわけ「間違っても男しかいないサークルとか、男しかいないバイトを選ばないように」と強調します。これはつまり「そんな環境に身を置いたら、選り好みして女に話しかけてしまう大学のクラスくらいでしか女と喋る機会がなくなるぞ、そしてそこではお前は見向きもされないぞ」と言っているようにも見えます。

 

というような感じで、ですね。

センテンスだけ抜き取ると鴻上尚史がいかにもおっさん的な思考で「気の弱そうな男慣れしてなさそうな女を狙え」とアドバイスしてるようにも見えてしまうんですが、全体の構成を見てみると、むしろ「自分に釣り合いそうな女を選り好みする、バッティングセンターのノリで話し相手にする女性を選ぶ」といういかにも女慣れしてなさそうな男が考えそうな思考回路を先回りしてそこに活路はないぞ、と潰しているようにも見えます。

鴻上尚史の本当に言いたかったことは「いけそうな女を狙え」ではなく「いけそうな女を狙おうなんて悠長なこと言っててどうする、甘いんだよ、選り好みしてる余裕なんかお前にはないし選り好みしてるようじゃ結局負けるんだよ、緊張しようがなんだろうがとにかく女性と喋らざるをえない環境にまずは身を置け」といった内容だったんじゃないかなと思ったんですがいかがでしょう。

少なくともバイト先やサークル内でも男慣れしてなさそうな話しやすい女の子とだけ喋れとは言ってません。むしろクラスと違ってそんなん言ってられないからね、バイトとかサークルってやつは(そしてだからこそ、ポンプくんはそういう環境に身を置くべき)、ってニュアンスに僕には見えます。

もちろんそのうえでポンプくんがイメージしやすいようにという意図はあっただろうにせよ女性の接しやすい接しにくいを球速に例えるのがホモソ的で問題だと言われればそれまでですが、鴻上尚史の示したい方向は、どちらかというと「女をバッティングセンターみたいに考えるな、そんな馬鹿なこと考える余裕もない男も女もたくさんいてそいつらとコミュニケーションしなくてはならない環境に身を置け」という話に僕には見えました。

僕から言えるのは、それ以上でも以下でもありません。

ここまでを読んだ人が「なるほど、そうかもな」となるか「んなわけあるか絶対許さん」となるかは僕じゃなくてこれまでの鴻上尚史次第なんじゃないかと思います。おまかせします。

あとは、こう、段落に分けてみると、パソコンで見たときめちゃめちゃ変なところでページ分割されてるよね、編集なんも考えてないな、って程度には。そういうのもあったのかなーとかは思った。

 

ま、言いたかったこととしてはそんな感じなんですけど、それはそれとして「こいつなら俺でもいけるやろ」って思われるのは良い気はしないよね。

たとえば男同士でも2年3年のなかではめちゃめちゃいじられキャラなのに1年にはやたら先輩風を吹かしてマウント取ろうとしてくる奴とかいたらむかつくもんね。いじられキャラ自体は馬鹿にすることじゃないけど、そこで後輩に普通に接するんじゃなくてこいつら相手なら俺がいじりキャラになれるんじゃないかみたいな感じでこられたら、「あ?」ってなるもんね。おしゃべりをする相手を選ぶにせよ、選べない環境に身を置くにしろ、常に相手へのリスペクトは忘れないように人間生きたいものだよね。

まぁ、俺、人間じゃなくてワニだけど。じゃ、ぼちぼち死にまーす!!

以上です。

「自分かわいさ」ゆえのパニックは、しんどい

新型コロナウイルスの影響で日本全土が騒がしい。

先週あたりから仕事の方でも本格的にいろいろな影響が出始め「これはパニックだなぁ」と思いながら過ごしていたら、週末には国が重い腰を上げてお尻をふりふりと踊り出してくれたお陰で更に混乱は加速して気付けば1ヶ月前には想像もしていなかったような文字通り国が丸ごとひっくり返ったような大騒ぎになっている。

それで僕はというと、専門家でもなんでもないので実際のところあんまりわからんのだが現状の受け止め方としては新しい名前の風邪が流行ってるくらいの話なんだろうなくらいに思ってるところがあり、毎年風邪やらなんやらで死ぬ人や交通事故で死ぬ人の数に比べればそんなに恐ろしいもんなのかなと思っているし、とは言えインフルエンザも今でこそ今の扱いだがタミフルだのリレンザなどが登場する前はえらく恐ろしい病気として社会的に扱われていた記憶もうっすらあるのでアレと同じものなのかと考えれば過剰に恐れてパニックに陥る人がいるのも仕方がない。実際死ぬ時は死ぬやつだし。とりあえず地元の90過ぎた婆さんか死なないかは僕も心底心配だ。そういうわけで彼らを馬鹿にして断絶することもしたくはない。せめて怪我の巧妙というと少し違うか、転んでもタダでは起きないの精神でこれを契機にリモートワークなどの働き方改革とやらが少しでも前に進めばいいやくらいの気持ちで、まあ世の中のパニックを真に受けることなく粛々と生活を続けよう。

今の状況だと経済的な影響がどれくらい出るのかとか先行き不安な事柄は枚挙に暇がないことは間違いないのだが新型コロナウイルスという感染病そのものに対する僕のスタンスはそんな感じでそれは一貫しているつもり。

だもんで、「こんなパニックはきっと311の震災以来だな」と思いつつも世の中の喧騒や日々のニュースから僕が食らうダメージはあの震災のそれに比べれば極めて軽微だし、まあえっちらおっちらやっていこうてな調子でいつもどおり情報を浴びまくりながら生きてたのだが、今日になって唐突に「あれ?もしかして俺めちゃめちゃしんどいのでは?」ということになんとなく気付いてしまったのである。

そしてその理由はなんであろうかと考えた結果、今回のこのパニックは、日本人すべてが本当の意味での「当事者」として直面しているということに先の震災とは違いがあるのだなということに気づいた。

もちろん、経済的なことを考えれば日本人誰もが当事者であったという点について言えば先の震災も今回のこれも同じである。が、感染リスク、もっと直接的に言えば死を恐れるという点においては、やっぱり先の震災(もっと言えばそれより前と後にあったあらゆる災害)と今回のこれは違う。災害には良くも悪くも当事者と非当事者がいた。被災者とそうではない被災地とは遠く離れた地に住む人とがいた。

何が言いたいかというと、災害の時のパニックって非当事者による他人を思いやる善意によるパニックの部分もあったのだった。もちろん、その全てが善意だったとはとても言えるはずもなく、例えば非当事者が非当事者ゆえの自分かわいさのあまりに原発被害を受けた地域を差別したりだとかそういうのはあったし今も残ってるわけだが(余談だけど、当時の国内における被災地差別って、今世界で起こってるアジア人差別と構図がすごく似ているよね)、災害によって起きるパニックの中には当事者ではなく当事者である人たちに対して何もできることがない自分の無力感に起因するパニックだとか、そういう善意によるものが少なからず混じっていたのだが、今回のこれは自分がいつ感染者になるかわからないという当事者意識がパニックの成分構成のほぼほぼを占めていて、つまりは大半が「自分かわいさ」によるパニックであるのだなと気付いた。

ぶっちゃけ、被災地に良かれと思って家に余っている使えそうなものを送りつけるような人たちと、今回買い占めに走ったりマスクを手に入れようと奔走している人たちってだいたい同じ層なんじゃねえかなと思ってるのだが、前者はそれが適切な行動であるのかはさておいてもまだ「他人のために自分にできることはないか」という善意が原動力になっているのに対し、後者に関してはまあ完全に自分かわいさのことしか考えていない行動であると判断せざるをえない。それを殊更に糾弾するつもりはないのだが、まあ、人間のそういう部分しか見えないパニックを浴び続けるというのは、これ結構なかなかきついもんだなということに思い至ったのである。

「自分かわいさ」ゆえのパニックは、見ていて触れていて、なかなか本当にしんどいのである。

今やパニックは健康被害に留まらず、今後是々非々が検証されるべきであろう政治的判断によって、より多くの人々がより「当事者」としてパニックに陥っている。今後更に多くの人が陥っていくであろう。

その中で更により多くの人の「自分かわいさ」が露見され、より僕はしんどくなっていくのだろうと感じる。既に自分の立場の大変さを嘆くなかで、実にもっともらしく自分とは異なる立場の人を軽視した言動をカジュアルに披露する人々が少なからず僕の視界の端をちらついている。彼らを目にする機会は、彼らが僕の視界を占有する面積は、これから加速的に大きくなっていくのであろう。

もちろん、そんな中でも人の善意を目にする機会だって少なくはない。それに救われる部分もないではないのだが、それらの善意は一定の冷静さによって発揮されているものであるのだよなぁというのが僕にとって都合の悪い残念な真実だ。

人間のダメさの中に人間のかわいいところを見い出すことが生きる寄る辺の僕のような人間にとって、パニックそのものの中に他人を思う気持ちがあまり見出せないことは僕にとって実に不都合な真実の側面だ。それで僕はどうにも落ち込んでいるのだなということに気づいたのである。

とりあえず、「俺は気づいた」ということを書いて、真っ最中の真っ只中の今日のところはここで筆を置こうと思う。そして一度気づいたからには、明日からも生きるために一定の情報収集は続けながらもパニックそれ自体とは意識的に心理的な距離を置きながら生きていこうと思う。

願わくば、僕の隣人も決して平穏とは言えないまでも、平穏からは程遠いまでも、悲しみの只中に陥ることなく日々の生活をわずかばかりの喜びと共に生きながらえられますよう。

以上です。