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「M-1グランプリ2019」感想文

いやー、今年のM-1はねー、見た?みんな見た?最高だったねー。

残念ながらリアルタイムでは見られなかったから、うっかりTwitter開いたら速攻で優勝者のネタバレ食らっちゃってちょっぴり悲しかったんだけど、それでも十分すぎるくらいに楽しめたね。今までのM-1でほんまに一番笑ったんちゃうかなくらい笑ったし面白かった。2015年復活して以来「今後M-1というブランドを固めてどう毎年の風物詩にしていくか」っていうのをすごい模索していた部分はずっと感じてたんだけど、この2019年のM-1を持って一旦完成したというか、「お笑い好きにとってのM-1ってどういう存在なのか」ってのが出来上がったと言っていいんじゃないかなと思った。

まず審査員が良かった。明らかに去年の反省を踏まえているなみんな、というのがよく分かった。まぁ冒頭でネタにもしてたけど、去年は本番中の空気自体も最悪だったし、確実にその影響もあってのその後のとろサーモンの配信炎上騒動があったり、僕自身も2018年のM-1感想ブログを読み返してみるとそこには「老害をぶっ潰す」がテーマの大会だったと書き記していた。まぁ真面目に真剣に審査するのも大変なんだろうけどさ、あまりに審査員たちが会場の空気を重くしていてて出場者たちもやりにくければお客さんも笑いにくいという誰のためのお笑いなのかわからんような状況が前半からずーっと続いていて、そんな閉塞感を若き漫才コンビたちが力を合わせてぶっ壊す!!っていうのが2018年のM-1に起こっていたストーリーだった。そして松本人志はそれげ結局ぶっ壊してみんなゲラゲラ笑って最終決戦を終えられたことを以て「チーム戦」という表現を用いていた。それでいうと、今年の2019年のM-1は、そのチームに審査員もがっつり加わって、年に一度の漫才のお祭りという檜舞台に自身の未来をかけて挑む若き漫才師たちに、本当に最高の状態で全力をぶつけてほしいっていう審査員の会場作りへの思いみたいなのがすごく強く感じられたんだよね。そして、それがやっぱり最高のM-1を生み出すためには当たり前に絶対必要だったんだよねってことが本当によくわかったM-1だった。

じゃあなんだい、審査員が作ったぬるい空気のおかげでみんな笑いやすかったんかい、というともちろんそんなことはない。M-1特有の緊張感で並大抵じゃないプレッシャーがあるだろうことは空気が重かろうと軽かろうと変わらない。そんな中でファイナリストの面々は各々が各々の独自の武器をビッカビッカに磨き上げて、全員が客席と、審査員と、そして日本中のお茶の間にがっぷり四つで真正面から挑み、そうして最高の漫才を見せてくれた。本当に今回はハイレベルで悪い意味でダレてしまうような漫才は一組だったなかったと思う。最初っから最後までずっと面白かった。

一組目のニューヨークはトップバッターを引きながらもまさかの歌ネタで挑むというくそ度胸を見せつけてくれた。彼らがいつも歌ネタしかやらない人なのか、歌ネタ以外にも色々ネタがあるのか、何番手を引こうが歌ネタをやる気だったのか、トップバッターだからこそ歌ネタを選んだのか、僕には何もわからないんだが、どんな事実があろうとトップバッターで歌ネタうますっていうのはどうしたってくそ度胸というより仕方ない。しかもメロディにフレーズを当て込んでいくいわゆるフォーマット依存度の高い歌ネタではなくて、印象的なメロディのフォーマットはもちろんありつつもその中でストーリー性を持たせてしっかりと展開させていくその手法は極めて完成度が高く感動した。何より「これからいろんな形のいろんなおもろい漫才たくさん見れますよ」という今年のM-1への期待をバキバキに持ち上げてくれた。点数でいうと一番低かったという形にはなってしまうけど、審査員がしっかり温めてお膳立てしてくれた会場のお客さんの熱量をそのままに受け止めて漫才頂上決戦を開幕させてくれたっていう意味では本当にめちゃめちゃ功労者だったと思う。

二組目のかまいたちもニューヨークが作ったその空気をそのまま引き継いでベテランの貫禄を見せつけてくれた。何度か見たことのあるネタではあったがそれでもウケると確信を持ってこの舞台にかけて、そしてきっちり爆笑をかっさらう。かっこよかったー。

三組目の和牛については今回の大会でもなかなか賛否が分かれてしまう立場なのではないかと思うが、僕は割と好意的に見た。和牛って実はもともと全然好きじゃなかったんだが、主たる理由として単純に品がない、必要のない女性蔑視的なネタに頼りすぎなきらいがあった。最後にも触れるが何も僕はお笑いですらきれいでポリコレ的に正しくなくてはならないと思う立場では全くないのだが、それでも和牛のそれはあまりに安直で、かつ彼らの高い演技力を高い水準で見せつけるうえで全然必要な要素には見えなくて、それがあまりに滑稽であまり面白くは感じられなかったのだ。が、去年あたりからそういった女性蔑視的な笑いの傾向は影を潜めるようになり、今年はもう完全にそれがなくなっているように見えた。本当は不要な毒でも一度覚えてしまった毒を手放すのはなかなか怖いことだと思う。それでも手放すことができたのは、やはり自分たちの漫才のスタイルへの自信と矜持があったからだろう。強いストーリー性で後半大きな展開を見せていく彼らの漫才のスタイルはやはり前半は笑いのサイズが小ぶりになってしまいがちで、M-1のような場所ではなかなか「勝ち」に近づけないというジレンマみたいな部分はあったりする。その点で、このような漫才のスタイルを選択している和牛に対して上沼恵美子からもあったような批判が上がるのは、まぁわからんでもない。しかし僕は一方で彼らの矜持みたいなものを今回感じることができてそれをポジティブに受け取ることもできるし、「勝ち」にいってる漫才ではなかったかもしれないがM-1というエンターテイメントには一組は必要な漫才で、その全体の完成度にはきっちり花を添えているなと感じた。

すゑひろがりずは、よく決勝まで残したな。準決勝までの審査員がまずすごいわ。そして、決勝まで登りつめることができたのはそれだけ客にウケてたからであろうわけで、あの色物漫才を「面白いから」と素直にM-1の会場で笑っていた準決勝までの客もすごい。そして何よりあのスタイルを貫き通したすゑひろがりずの二人がすごい。安心して笑いたいお茶の間の正月需要なんかを逃さず掴んで今後どんどん活躍してほしい。ネタとしては後半、大喜利の羅列っぽくなりすぎて展開が広がっていかずこじんまりしてしまったのがもったいなかったなーと思う。

からし蓮根、面白かった。

見取り図、面白かった。

ミルクボーイ、めちゃめちゃ面白かった。今更書くことないわ。

オズワルド、あのミルクボーイのあとでよくやりきったなと思う。最初これはミルクボーイウケすぎてかわいそうなのではと思うくらいだったが最初の20秒30秒でしっかり会場の空気を自分のところに掴み戻し、ミルクボーイの後に一番向いてないだろう自分たちのスタイルのネタを冷静に見事に最後まで100点の出来でやりきった。すごいよね、並の度胸じゃできないことだと思う。尊敬に値する。

インディアンス、面白かった。

そしてべこぱ、ラストに自分たちを持ってこれる引きがまず強かったと思う。こいつらのネタは最初でもダメだったし誰と誰の間でもダメだったし、やっぱりラストでもうみんなお腹いっぱいいろんなネタ見て笑いすぎてもう疲れたよという状況だからこそ、あのべこぱのスタイルが完璧にあの会場の空気にハマったんだと思う。ウケないわけがない。そして内容それ自体も抜群に面白い。めちゃめちゃおもしろかったー。

点数の内容は今年はほぼほぼ文句がなかった。というか「だいたい何点くらいかな?」と言ってたのがほぼほぼ当てれていた。俺の体感的な点数と審査員のつける点数がこれほど一致した大会もこれまで見てきたなかで一番だったんじゃないかなと思う。まぁ、それが「良いこと」なのかは知らんが、俺にとっては妥当だったので、「面白かった、みんな面白かった」というだけでそれ以上特に文句がない、というだけの話である。

令和最初のM-1だったわけだが、それぞれのコンビの漫才のネタ傾向もそれにふさわしいラインナップだったんじゃないかなと改めて思う。どのコンビのネタにも、なんか、平成のM-1の歴史に名を残す数多の漫才師たちのハイブリッドに見える瞬間がたくさんあったのだ。もちろん良い意味で。いわゆる「第二の椎名林檎」みたいな持ち上げ方をして女性アーティストを新しく売ろうとすることの意味がないように、「誰々に似てる」とか「誰々の系譜にある」みたいな言い方をするのも良い影響以上に悪い影響の方が多いように思うのであまり詳しくは語らないが、それでもミルクボーイのあの二人のしゃべくりにブラマヨを思う人は少なくはないだろうし、オズワルドが堂々とあのネタをやりきりしっかり爆笑をかっさらっていった風景に僕は初代M-1おぎやはぎからの長い時代の流れとその中での世の中のお笑いに対する見方の変化を感じずにはいられなかった。長い下積み期間の紆余曲折を経て、あのスタイルに辿り着き、M-1という晴れ舞台で爪痕をがっつり残したべこぱを見るとやっぱりオードリーの鮮烈なM-1デビューを思い出してしまう。

何が言いたいかというと、誰のネタって誰に似てるよね、とかそういうことを言いたいのではない。平成という一つの時代が終わり、令和という新しい時代が始まり、社会は大きなうねりと共にこれからも変化し続けていくわけだが、平成の頃と少しも変わらずに、令和の時代も数多の芸人がお笑いに夢を見て芸人として生き続け、そしてこれからもまだ俺たちが見たこともない面白い漫才を見せていってくれるんだなという希望を、今回のM-1は俺にありありと感じさせてくれたのだ。お笑いというこの世にあってもなくても本当は一つも誰だって困らない無用の長物がこれからもいついつまでも我々の社会の隣を走り続け、笑わせていってくれるのだと思うと俺はたまらなく嬉しかった。お笑いが好きでよかったなーと本当に思える、そんなM-1だった。

漫才師と客席が審査員たちにぶつかっていく去年のM-1の反省を踏まえ、今年のM-1は、司会審査員客席お茶の間までもが漫才師たちと一体となって一丸になって共に戦う、本当の意味でのチーム戦だったんだと思う。じゃあそれって誰と?一体俺たちはお笑いで誰と戦っているのだろう?

それは安易に言語化する必要もないだろう。ただ、お笑いはまだまだ戦える。どこまでだって戦える。ただ思いもかけない突飛なことを言って人を笑わせる、ただそれだけの営みが、その灯を絶やさず灯し続ける漫才師という人たちの存在が、どれほど心強く頼もしいことであろうか、そのことを再確認できただけで今のところは良しにしようじゃないかと思う。

いやー、毎年毎年なんだかんだM-1は最高に面白いわ。最高。お笑い好きでよかった。来年も楽しみ~。

 

あ、最後に、余談。今回、最終決戦に挑んだ三組の傾向を以て「誰も傷つけない笑い」「これが令和の笑い」みたいな絶賛のされ方をよく見かけるのだが、それで本当にいいのかお前ら、とすげ~思う。

誰も傷つけない表現なんて存在しない。芸人の多くはそのことをよく理解しているのではないかと思う。しかし、それで萎縮してしまっては何もできないからせめて無闇矢鱈に人を傷つけたりはしないように、なるだけ不用意に人を傷つけてしまうことのないように注意を払いながらネタを書くってのはここ数年の傾向としてそりゃたしかにあるだろうとは思う。和牛について書いた下りしかり。しかし、それでもなお、「誰も傷つけない表現」なんてありえっこないし、そんなことわかったうえでみんな覚悟をもってやってるんじゃないかと思う。

それを自分が何も傷つかずに見れただけで「誰も傷つけない笑い」なんて表現を安易に使ってる奴らって実際どうなんだ?と思う。

例えばミルクボーイの二本目のネタでは最中の父親が京都で不倫してできた子供が八つ橋だというくだりがあった。私生児みたいな問題は世の中の多くの人にはフィクションで自分には関係ないことなのかもしれないが、当事者は必ず世の中のどこかに存在する。その人たちがあのネタを見て傷つかないと僕にはちょっと考えただけでどう考えても言い切ることができない。

べこぱのネタですら、車に撥ねられるという下りが存在する。今年さんざん死亡交通事故がニュースで取り沙汰されてるのをみなさんご存知の通りのはずなのに、それを知ってなお「誰も傷つかない笑い」と断言できる人の気が僕には知れない。

もちろん僕が言いたいのは「不倫や私生児を笑いのネタにするな」とか「だから、交通事故を漫才のネタに取り入れるな」とかそういうことではない。どんな表現も、ましてや笑いなんていうジャンルにおいては「誰も傷つかない表現」なんて成立しえっこないんだ。何を言っても誰かが傷つく、その中で自分はどんな表現を作るのかってところでみんなもがいてるんじゃないのか?

自分の主観に基づいて、自分が傷つくかどうかだけに焦点を当てて「誰も傷つかない笑い」「誰かを傷つける笑い」を安易にジャッジしようとしている奴ら、そういう奴らが「傷つけても構いやしない人」を勝手に規定して蔑ろにしていくのだ。てめえが傷つかなきゃ他人のことなんてなんでもいいって考えが言葉の端々から滲み出ていて醜悪なことこのうえない。せっかく気持ちよく「誰も傷つかない笑い」を楽しんでいたのにこれを見て「そんなところまで気を使ってられるかよ」とめんどくさそうな顔をした人がいたら、その人はその人たちが憎む蔑視的な人たちと今自分が全く同じ顔をしていると思った方がいいと思う。

不用意に誰かを蔑むような笑いを捨てて、誰かを貶めることで笑いを取るような真似はやめて、そのうえでより面白い漫才を作ろうとしている今のムードに特に文句を言いたいところはない。しかし、それをどれだけやったところで「誰も傷つけない笑い」なんて存在しないし、笑いは個人と個人の違いや差をまじまじと見つめて笑い合う表現なのだから、やっぱりその違いや差に傷つく人はどこかに絶対いるんだよ。誰かを傷つけるかもしれない可能性を常に抱えながら、それでも想像力をもとにベストを尽くそうと、真のベストはありえなくても最高を目指してみんなやっていくもんなんじゃねえの?その想像力を後ろめたさからか怠惰からかは知らないがかなぐり捨てて、自分に都合の良い表現を「誰も傷つけない笑い」と言ってのけてしまう人たちが当たり前に存在してしまう状態では、表現する側のアップデートに客であるこっちの側が全然追いついてないんじゃねえかなと思う。

以上です。

2歳の息子に一緒に酒を飲んでもつまらん二軍のやつ扱いを受けた

嫁さんが忘年会なので普段は嫁さんがやってる息子の面倒を寝かしつけまで一通りやったんだが終始いろいろ順調だったんだが寝る前に絵本を読むタイムがあるんだけど本棚から息子が読みたい絵本を選んで寝室に持っていく、いつもは嫁さんが5冊までだよ5冊までだよって言ってるのに息子は6冊も7冊も本棚から取り出して寝室に持っていこうとするから5冊だよ5冊だよってなだめて5冊にさせようとしているから俺も5冊だよ5冊だよって息子に促したんだけど3冊しか選ばねえの、え、お前、もう2冊いけるけどいいの?3冊でいいの?本当にいいの?って言っても、うん、うん、しか言わねえのそれで仕方ないから二人で寝室に行って絵本3冊読み聞かせしてやってまだ3冊だけどいいの?もう2冊くらい読んでもいいけど寝る?て聞いたら、うん、うんって、言って自分で電気消して寝るんだから一体なんなんだこの2歳児。完全に今日の飲み会のメンツおもんないから絶対二次会行かないし財布5000円くらいあればいいや感覚で絵本3冊しか選んでないじゃん。そういう自分のことイケてると思ってほかのやつ見下してる大学生みたいなことするんだ、2歳児もするんだ、と思った。思ってるあいだに本当に2歳児寝た。おやすみー。

以上です。

人生会議雑感。啓蒙はエゴだからこそ十分な配慮が必要だ。

小藪の人生会議のポスターが取り下げられた件。

散髪屋に行くのと同じペースくらいでネットで話題になる「一部のクレームによって広告やらキャンペーンやら何やらが取り下げられる系のやつ」ですが、これについて僕の一番根っこの主張はだいたい同じで「取り下げるくらいなら始めからやるな」で、「クレームが来たから取り下げる」ということは「クレームが来るとは思っていなかった」ということでそれはつまり「誰も不快になるとは思わず、全員が全員、十人が十人、みんな好意的に受け止めてくれると思っていた」ということで、そう考えると「保育園児じゃねえんだからさぁ」と溜め息が出る。そんな簡単に取り下げられると「まさかクレームが来るとは思ってませんでした」ってことで、それは「あまり深くは考えずノリで作りました」と宣言されてるようなもので、擁護できるものもできなくなっちゃうのでやるならちゃんとやってほしいと思う。「クレームは想定内で炎上して話題になるならそれはそれでよし」の取り下げる前提でやってるパターンも考えられるが、それはそれで感心できないのでどのみち支持しにくい。

というのが、僕の基本的な考え方なのだが、その考え方を置いといても今回のこの広告を全面擁護してる人たちには「ちょっと待ってほしい」と思ったので慌ててお尻から万年筆をぷりっと取り出し筆を取った僕です。僕は万年筆で原稿用紙で書き、それを秘書がタイピングで清書するタイプです。気の小さい都知事に気を遣って芥川賞をもらってやった人と同じタイプです。

「取り下げるべきか、取り下げないべきか」は先に書いた通り「作った側が決めること」だと思います。だから、あまねく取り下げられた表現は基本的には「覚悟がなかったのね」ってのが僕のスタンス。

このスタンスとは相入れないところで「不当な批判をする奴が悪い」「そういう奴のせいで表現が抑圧されて良くない」「誰も傷つかない表現はないんだから馬鹿げたクレームを入れるのはやめろ」って人たちもいます。そういう人らは当然、今回の炎上にも炎上させた側に怒ってるわけです。

今回多いのは「実際に延命治療に向き合った経験がある人は、この広告に好意的」みたいな雰囲気で「厳しいけれども大事な話で、けど普段はみんななかなか考えようとしない話題なのでインパクトがある表現でも、多くの人がそれをきっかけに考えてくれるならそれは良いことだ」みたいなノリが擁護派からは感じられます。まあ言うてることは分かります。

分かりますが、そのうえで僕から見てどうしたって不当な批判に当たらない真っ当な批判がとりあえず一つ、僕にはパッと思いつきます。

あの、枕元にいる父親に毒づくくだり、要る?

病院で延命治療受けるより家族と一緒の時間を過ごしたかった。これはわかる。

これを表現する過程で、病床に寄り添う別の身内をdisる表現、必須?

今この瞬間も何も言葉を言わなくなった身内を見舞って看病してる人たちがいるわけですよね?その人たちに「もしかしたら、そのあなたが看病してる身内はあなたに全然感謝してなくて、実は内心disってるかもね」って投げかけるような表現は、この人生会議の本来投げかけたいメッセージを人々にお届けするうえでどうしても必要だったんでしょうか?人生会議が投げかけているような「考えよう」というメッセージがもらえなかったが故に、考える間も無く当事者になって、今まさに葛藤しながら正しいかもわからぬ身内の治療を自らの時間と体力をすり減らしながら向き合っている人たちに「お前disられてるかもよ?」て表現をお届けすることはどうしても必須だったんでしょうか?

この一点において、あの広告表現は、批判されるに値する、と考えるし、僕もその点において批判します。そしてこれは「あの広告は取り下げられて当然」とイコールではないのは繰り返し言っている通りです。ちょっと文句言われて取り下げるくらいなら最初から啓蒙広告なんてやるなバーカ。

そもそもに立ち返ると、啓蒙って、エゴなんですよ。本来やらなくていいことを「やったほうがいいと俺は思うから」って理屈でやるのはエゴなんです。「自分はそれで辛い思いをしたから、そんな辛い思いを他の人にしてほしくないから啓蒙したい」ってのは、エゴなんです。辛い思いをした自分のためにそうしたい、てのはエゴなんです。別にいいじゃないですか、事前に話し合えなくて辛い思いをする人がこれからどれだけ出ようが別にいいじゃないですか、各自辛い思いをすれば。人間ってそんなもんですよ。この「人間ってそんなもん」を「そんなもん」と思いたくないってのは、やっぱりエゴなんです。

別に僕は「エゴ」をイコール「悪」「無意味」と言ってるわけじゃない。

結局はエゴなのだからこそ、啓蒙するならするにしても、不要に人を傷つけたり脅したりするようなやり方は推奨されるべきではないってことを言いたいんです。

「自分のような辛い思いは他の人にはして欲しくない」、その心意気やよし、今は自分には関係ない他人事だと思ってる非当事者をびっくりさせて考えようってのは別に悪いことじゃない。だけれど、そのびっくりさせる過程で「今更言われてももう遅い」当事者の人らに更に辛い思いをさせないような配慮をしようとすることは、非当事者をびっくりさせて啓蒙することとは別にトレードオフじゃないでしょう。ないはずだ。そこを信じて考え抜くのが、表現じゃないんですかね?

的外れなクレームも多々あった。

しかし、改められる部分もあった。

取り下げる必要はなかった。

しかし、省みる点はゼロではなかった。

それだけの話だと思うんですよね、僕から見ると。

だけど、「ネットの声」を眺めてみると、どうもそんな感じではなくてさあ。総論賛成各論反対じゃなくて総論も各論も賛成で、あの広告に怒ってるやつが悪くてあの広告は悪くないって人を結構見かけて。まともだと思ってたアカウントでもそうなってる人を結構見かけて寂しくなってしまった。

勝手に「傷ついた」と騒ぎ立ててばかりの人にうんざりする気持ちはわかるよ、俺だってうんざりしてる。だけど、そうやってうんざりした結果、人を傷つける可能性への想像力を失ってしまうのでは、それはあまりに寂しすぎるし、惨めったらしいよ。俺はまだまだあーだこーだ言っていたいけど、今はもう、そんな時代でもないのかなぁ。寂しいな。

以上です。