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Twitterのクソリプ非表示機能が分断、相互不理解、思想の先鋭化を加速させる可能性

https://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/17420389/

 

はてなスマホアプリ、ブログカードでリンク貼れるようにしてくれ(できるなら教えて)。

以前から話題になっていたTwitterの自分にぶら下がったリプライを任意で非表示にできる機能が実装されるそうだ。

そのニュースを見かけて僕は掲題のとおりの懸念を抱いた。

その理由を以下にまとめる。

 

まず、ミュートしているユーザーからのリプライは現状ツイート主に表示されない仕様になっているが、つまりツイート主が見れないことにはそれを非表示にすることもできない。もしそのような仕様が継続されるのであれば、自分のツイートのリプライ欄をコントロールしたいユーザーにとってミュート機能は痒いところに手が届かない無駄機能となり「ミュートではなくブロック」という選択がよりカジュアルに行われるようになるだろう。

自分のツイートのリプライ欄をコントロールしたいユーザーは、非表示にするリプライを選別するためにすべてのリプライに目を通す必要が生まれる。つまり、思想の異なる批判的なリプライへの接触機会が増える。そうなると対抗思想への憎悪はより深まることとなるだろう。今は「通知切ります、リプライも読みません」という選択肢が取られることが多かったが、やろうと思えば自分のツイートのリプライ欄をコントロールできるという選択肢を与えられたことで、これまで「見ない」という選択肢を選んでいた人々が「しんどい思いをしてでも見て非表示にしたい」という欲望にどれくらい抗えるのかは不明だ。しんどい思いをしてまでクソリプに目を通す必要はない、と僕は思う。

 

賛否両論のツイートをしてリプライが殺到するのに慣れっこな人が、自分のツイートのリプライ欄をコントロールしたいユーザーだった場合、カジュアルブロックは加速するだろう。毎回対抗する批判に目を通すのは面倒なので、ならばアカウントごとブロックするのが手っ取り早い。

 

このようにして、まず、ブロックのカジュアル化は促進される。その過程で「初めてのバズ」にぶち当たって、自分のツイートのリプライ欄をコントロールするために批判的な意見にわざわざ必要以上に目を凝らして向き合い、対抗思想への憎悪を必要以上に深める人というのも増えていくだろう。そして、憎しみがピークに達したところでカジュアルブロック派に移行していくだろう。

 

カジュアルブロックの加速によって、お互いに憎しみ合うことしかできない相手同士がTwitter交差点の真ん中で正面衝突する機会がなくなるならそれはそれでいいではないかと考えることもできるかもしれないがそうは問屋が卸さないだろう。

一定のバズに至ったツイートは必ずメディアが取り上げる。いくら、対抗思想をお互いにブロックし合ったところでネットニュースになってしまえば、お互いの目に触れないということはない。

しかし、お互いにブロックし合っているのでは、クソリプを投げ合うことも出来ず、自らツイートするより仕方がない。そしてまた、そこにリプライで飛んできた批判的な意見はまたブロック。批判的な意見をブロックするために目を通して憎悪を煮詰めてはブロック。

しかし、対抗思想自体はネットニュースを通して目に入る。絶賛と猛反対のみをまとめたネットニュースは更に双方の憎悪を深めるだろう。

自分が賛同したいツイートのリプライ欄を見れば、それもまた都合の悪いアカウントはブロックしててリプライされないか非表示機能で整備されているかで、自分と同じく賛同するリプライばかり。「みんな自分と同じ意見だ」と自身の思想の正当化と先鋭化は加速するだろう。

 

もちろん、これに似たような状況は、リプライ非表示機能を待たずとも各所で発生しているのだろう。そういう運用を現時点でしている人も既に少なからずいることだろう。しかし、自分のツイートのリプライ欄をコントロールできるようになるとあらば、そのような運用を選ばず踏みとどまっていた人が運用方針を切り替えるというケースも少なからず増えるだろう。

 

以上のように考えた結果、この機能の実装は、SNSを起点に、分断と相互不理解と先鋭化を加速させるのではないかと思う。今でさえギリギリというか手遅れにも見える分断が更に加速するように思われる。自身が共鳴できるツイートとそれに対する多くの賛同しか見えない世界で、見えてないから正確な割合はわからないけどネットニュースに書かれている極端な反対言論を見れば、人間はより憎悪を募らせ先鋭化するのではないかと思う。

 

今後の変化を待つほかないのだけれども、とりあえず今はそんなことを考えるのだった。

 

以上です。

強調しすぎたアンガーマネジメントをする清掃員のおっさん

あのー、引っ越したらゴミ出しのルールが変わって。前のアパートは専属の業者を雇ってるだかなんだかで「基本的な分別さえしてくれたら毎日いつでもゴミ出していいよ」みたいな感じだったんだけど、新しいマンションはペットボトルは何曜日!アルミ缶は何曜日!とか割と細かいみたいで、まあ向こう何十年も挨拶することになる他の住民にマナーの悪いやつと思われるのも癪だし、ちゃんと従うかーと思ってもそんなん気にしてゴミ溜め込むのが超面倒なの。だから、近所のスーパーの回収ボックスでペットボトルとアルミ缶は処理しようってことにしたのね。

で、さっきさ、いつものように回収ボックスの前でペットボトルのキャップを外しては捨てキャップを外しては捨てをしてて。

理屈は知らんがキャップとペットボトルは分別して別のボックスに入れなきゃダメなんだって。

で、かったりーなーって思いながらやってたらさ、清掃員のおっさんがやってきて、ちょっとすいませんねーって僕に会釈して回収ボックスを開けてペットボトルがパンパンに入った袋を回収したのね。で、僕もありがとございまーすって会釈してペットボトルの蓋外しては捨ての作業に戻ったんだけどさ、突然僕のすぐ横でおっさんが絶叫し始めたんですよ。

ちきしょ〜〜〜!!!!ふざけやがって!!!やっぱ入ってやがる!!!

キャップがよ〜〜〜!!!!なんで入ってやがんだよクソがよ〜〜〜!!!

ふっざけんなこの!!!!キャップが!!!キャップが入ってやがんのかよ〜〜〜〜!!!!

おおおおおおおお、お〜、おおおおおおおお!!!!

っておっさんこんな怒ってるおっさん初めて見たかもくらい怒っててめちゃめちゃ怒ってるとしか言い様がないくらい怒ってんの。

おおおおおおおお!!!キャップがよ〜〜〜〜〜〜!!!!

キャップ外せよ!!!!外さなくちゃ、ならんのだろう〜〜〜〜!!

おっさん、袋をがさっがさ言わせながら絶叫してて、ペットボトルを掻き分けてキャップついたまんまのペットボトルを探して

あったじゃねえか、底の方によ〜〜〜!!!ふざけんなよ!!!キャップがあるだろうがよ〜〜〜!!!

更に更にペットボトルを両手で掻き分け掻き分け奥の底にあるキャップがつきっぱなしのペットボトルをむんずと掴み

ほら、ついてるじゃんね〜〜〜〜!!!

キャップがついたまんまんじゃんね〜〜〜!!

つって。うわ、このおっさんいだてん見てるじゃんと思って。ごめん、今のは盛った。じゃんねは言ってなかったけど、それ以外はマジで言ってる。絶叫で。

いや、ほんと、僕も33年生きてきたけど、こんなに怒ってるおっさんって、いる?ってくらい怒ってて。いや、俺はちまちま外してるけどさ、善良な市民だから。キャップつけたまんま捨てる善良じゃない市民なんざいくらでもいるだろ、つまり、いつものことだろ。いつものことに人間って毎回こんなに新鮮に全力で怒れるもんなの?嘘でしょ?と思いながら横目で見てて。

で、その怒り狂いながらのおっさん分別チェックが終わっておっさんも一息ついたくらいのところでちょうどよく別の一般客のおっさんがやってきてね、キャップがついたまんまのペットボトルをそのまま回収ボックスに捨てたんですよ。

うわ、て思って僕がおっさんの方をパッて見たら、家政婦は見たみたいな表情でおっさんを見てるの!

いや、おっさん二人だから状況の説明が難しいな、整理しますね。

一般人のおっさんが分別せずにペットボトルを捨てたことによって分別しないおっさんになって、うわっと思った僕が清掃員のおっさんを見ると清掃員のおっさんは家政婦のおばさんは見たの表情で分別しないおっさんを見たの顔をして見てたんです。

余計ややこしいな、あと家政婦にはおばさんつけなくてよかった。

とにかくこれはとんでもないことになるぞと思って、逃げろおっさん!お前は知らないだろうがお前が今この瞬間に敵に回したおっさんはただのおっさんじゃないぞ!世俗に生きる凡百には到底発揮できないであろう純然たる怒りという感情を秒で湧き上がらせ身体表現に昇華させることができるという怒りというギフトを神から承りしおっさんだぞ!!穏やかな心(エコの精神)を持ちながら激しい怒りに目覚めたスーパーサイヤおっさんだぞ!見れる見れる見れる!おっさんとおっさんの本気の取っ組み合いが見れる!おっさんがおっさんを巻き投げしてるところが見れるかも!いやー、生きてるとたまには良いことあるな〜、スーパーの前の路上でおっさんがおっさんを巻き投げしてるところが見れるなんてな〜、いけ!おっさん!いつも他人の分別の尻拭いをさせられてるその怒りを、この、特に描写する必要も感じさせないえんじ色のセーターを着たおっさんにぶつけるのだ!!お願いお願い一生のお願い、おっさんがおっさんを巻き投げしているところを俺に見せてくれ!!

って俺が一瞬のあいだに思ったその次の瞬間、清掃員のおっさんはニコッと笑って至極おだやかな調子で、すいませーん、キャップは外してくださーいって、おっさんに声をかけたの。そしたらセーターのおっさんも、あ、すいませーん、つって、一回捨てたペットボトルを取り出してキャップを外して捨て直したの。

あ、すげーなと思って。この清掃員のおっさんは怒り狂いながら分別されてないペットボトルを処理しつつも、その怒りを分別しない他人には向けないんだ、と思って。今の日本人に足りないのは、おっさんのこの心だなと思って。やってらんないよね、怒りながらじゃないとやってらんないよね。仕方ないよ。意味わからんくらいブチ切れながらじゃないと、他人の分別の尻拭いなんてやってられないよね。理不尽に屈さずに自分を奮い立たせるために怒り狂うことは、理不尽だらけの世の中を生きていくうえで必要なことだよね。ただ、世の中の理不尽を減らすために、他人を変えていくために必要なのは、怒りだけではないのかもしれない。そのまま怒りを他人にぶつけるのは簡単なことだし、おっさんだって本当はそうしたかったのかもしれない。俺も巻き投げ見たかったし。

でも、そうじゃないんだな、怒りは怒りで持ち続けながら、攻撃的にはならずに相手と対話して、相手を変えていく。結局そうしていくしか、ないのかもしれないな。今回は注意されたからそうしただけで、セーターのおっさんはこれからもあの清掃員のおっさんのいないところではペットボトルのキャップを分別しないで捨てるかもしれない。でも、今回、ペットボトルをわざわざ拾い直してキャップを外したんだから、次からもちゃんとキャップを外すようになるのかもしれない。その可能性を信じてるからこそ、おっさんは巻き投げではなく笑顔の声がけを選んだのだろう。巻き投げ見たかったけど。

おっさんの実際のところの胸の内はおっさんにしかわからないけれど、僕はこの3分足らずの出来事から何かを学んだ。おっさん怒り方尋常じゃないけど、怒る場面を選んでた。まあ、公衆の面前であの怒り方はやっぱどうかしてるとは思うけど、アレを見たら誰だってキャップちゃんと外そうと思うだろうし、奮い立たせるためでもパフォーマンスだったとしても、一人で勝手に怒るのは別にそんな悪いことでもないだろう。その怒りを他人に直接そのままに向けるではなく、全く怒ってる素振りを見せないでもない、あのおっさんのアンガーマネジメントには、めちゃめちゃ極端ながらも見習うところもあり、僕も頑張ってこの社会を良くしていこうと思ったのであった。

終わり、の前に、余談。

想定される突っ込みとして、このおっさん、おっさん相手だから下手に出てるだけだったんじゃないの?があります。僕もそれは思った。思ったので僕はこの出来事を見た直後、回収ボックスを遠巻きに眺めながらスマホを取り出し、このブログの冒頭を書き始めた。おっさんがペットボトルじゃない他の回収ボックスの処理を淡々と進めていくのを眺めながら。他にキャップつけたまま捨てる奴が来ないかなと待ちながら。

その瞬間まではあまり時間はかからなかった。間も無くして、若い女性が回収ボックスまでやってきて、キャップがついたままのペットボトルを捨てた。その時もおっさんは穏やかな調子で注意しているのを、声は聞こえないが遠巻きに眺めていた。この時俺はおっさんの絶叫シーンを書いている真っ最中のところで、その時点で、結びをこういう形にしたいなと思っていたので、ありがとうおっさん、あなたはやはり善良なおっさんだった、これで全体の構成を変えることなく書き進められる、と、俺は思ったのであった。

人によっては、最初のセーターのおっさんのパートを端折って、最初に分別しなかったのが若い女性だったことにしておけば、こんな回りくどい構成にする必要もなく、怒りを他人にそのままぶつけるのは良くないかもしれないよねというシンプルな良い話になったのでは?と思うかもしれない。

そうしなかった理由はただ一つ、あの時僕の脳裏を駆け巡った、おっさんがおっさんを路上で巻き投げするその画、その画がこれから見られるかもしれないというその興奮、それを僕が読者と共有したかったという、その一念である。

それはそうとして巻き投げ見たかった〜!

以上です。

嫁の「じゃじゃまるのお母さん、三味線にされた説」

まあ、2歳の息子がおりますもんで。絵本なんか色々本屋で買ったり図書館で借りたりして読み聞かせしてるんですけども。

やっぱ、「お母さん」の登場率が多いね絵本は、なんつって嫁さんと話しててね。やっぱ赤ちゃんはお母さん好きだからねーってところで、にこにこぷんのことを思い出してね。

なんかで読んだんですよ、にこにこぷんは子供のための番組です。しかし、世の中のすべての子供がお母さんがいるわけでもない。だから、にこにこぷんじゃじゃまるぴっころぽろりの三人はお母さんと離れて暮らしてるって設定なんだよね。

って話をしてたら嫁さんが「じゃじゃまるはお母さんが三味線にされちゃったんだよね」って言い出して。え、にこにこぷんってそんな残酷な設定ぶっ込んでくる?つって。たしかにじゃじゃまるはよくわかんないけどたぶん猫じゃん?って考えたらお母さんが人間に殺されて皮を剥がれて三味線にされてしまったって設定はまあなしではないかな?みたいな。ピーターラビットのお父さんがミートパイにされた的な?いや、でも、なんでそんな「三味線は猫殺してその皮を剥いで作るんだよ」なんてトリビア子供に教える必要ある?と思ったんだけど、嫁さんは超強気で「だからじゃじゃまるは三味線の音を聴いたら悲しくなって泣くんだよ」って言ってて、あー俺もなんか見たことあるわそのシーン、じゃじゃまる三味線で泣いてたわ。そうかそういうことだったのか!

と思ってググってみたら全然そんなことねえの。じゃじゃまるはお母さんと小さい頃に行き別れになって顔も覚えてなくて、お母さんは三味線の名手だったので三味線の音色を聴くとお母さんを思い出して泣いちゃうんだってさ。全然違うじゃねえか!なんとなくそう記憶が改竄されてく感じはわかる。

久々に良い捏造記憶に会いましたね。僕が小学生の時に亡くなった父方の婆ちゃんがね、僕と一緒にNHK教育を見ていてね、ノッポさんについて「この人は聾唖で喋れないけど、こうやって人を楽しませる方法を見つけて頑張ってるんだよ」と語ってて、婆ちゃんが死んでしばらくして中学生になった時にあの人は今的な番組でノッポさん普通に喋ってた時の衝撃ね。婆ちゃんなんでそんな嘘ついたのさって。まあでも、嘘ではないんだろうね。婆ちゃんはそれを信じて疑わぬまま死んでったんだろうね。そんなもんなんだろう、人生。誰も彼も真実を何も知らぬまま、間違った知識を抱えたまま、勘違いを抱き勘違いに抱かれながら死んでいくのでしょう。

少なくとも俺はじゃじゃまるのお母さん三味線にされた説は抱かずに死んでいくことになったけど、それでもどうしたって、婆ちゃんと同じように、勘違いを抱き勘違いに抱かれて死んでいくのでしょう。

死生観の話!?死生観の話だったのこれ!?

以上です。