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うちの幼い息子に絡んでくるだけで席は譲らねえババアの話

あのー、おかげさまでうちの息子もぼちぼち2歳になるそうで。ちょっと前までは寝返り打つ時にいちいちSASUKEのファーストステージの重たい壁を持ち上げる時のケインコスギみたいな雄叫びをあげていた息子もその二本の足でそこらへんをてくてく歩きまくるし、歩きたい時は抱っこをプロレス技かけられた浦安鉄筋家族みたいな全身ピン伸びで拒否する、コンセントの差し込むところを隙あらば折り曲げんとする立派な暴れん坊にすくすくと成長して大変何よりおりおかげさまの感謝感激雨雨ざらしの大変さです。

それでまー、ぼちぼち2歳になる息子の顔でも見せてやるかーつって京都の義実家に行こうかってイベントをやってたんですけど。その道中の話ですね。京都の義実家に行くにはまー京阪電車で特急乗って4駅5駅のそれなり1時間かかるかかからんくらいのちょっとした移動時間になるわけですけれども。

ベビーカーに息子を乗っけて、嫁と僕とで朝の10時だかに電車に乗り込むわけですけども、天気の良い日曜日ですわ、まー当然京都へと向かう特急電車はそれなり賑やかなもんで、そう座れるもんじゃないんですよ。ほんで、まーしゃーねーなーつってベビーカーが迷惑にならないように車両の奥の方にこぢんまりと待機して、嫁と二人で突っ立ってるわけです。そしたらね、目の前の優先席に座ってるババアがちらっちらこっちを見てきてて、やがて話しかけてくるわけです。「あら、かわいいねー」「大人しくて良い子だねー」言うて話しかけてくるわけです。それで、まー、「あー、どーもー、ありがとうございますー」言うて。正直べつにこの時点で愉快ではないですけどね、なんやねんその寸評思いますけど、錦鯉マイスターが錦鯉についてコメントする時のテンションで来てるやんとは思うんですけどね、その時点で。うちの息子が電車の中でおとなしかろうが騒がしかろうがお前の知ったことではないし、おとなしいことを以ってお前に「かわいい」と呼ばれる筋合いはないんですけど。誰かにかわいいと言われたくて連れて歩いてるわけじゃないからね、そもそも。まー、でも世の中こういうのも大事だって聞くからね、核家族社会はこういう袖と袖振り合う微笑ましい瞬間を大事にしとかないとみたいなの聞くから「ありがとーございますー」言うて返事しときますけどね。完全にハイキングこれから行く格好のババア二人だったので知らんけど、まあテンション上がってるんでしょ、そりゃかわいいガキが目の前にいたら話しかけたくもなるでしょうな、こっちもこれから義父母に会うわけなんでちょうどいいですわ、「今日も電車の中でかわいいねー言われてねー」言うたら義父母も喜ぶから、まあいいよ、ギブアンドテイクだよね、べつにいいんだけどさ。

けどさ、ほんでそれからしばらくしてみたら、なにせ電車が長いから、移動時間それなりかかるもんだからさ、息子がちょっとぐずってきちゃって、抱っこ抱っこと泣き出すわけです。こういう時、歯がゆいかな、どうしようもないんだけどさ、俺が抱っこしてもダメなんですよ、息子はこういう時、ただただ母親に抱っこされたいの。俺が抱っこしようとしてもその池の主のブラックバスみたいな暴れ方で脱出しようとするから。何その唇?めちゃめちゃルアーが刺さったまんまじゃん?みたいな、縁日のくじ引きのさ、今思えば何があってそんなもん欲しいんだよ、上位の景品がでかいカエルとかムカデのゴム細工みたいなさ、あのくじ引きあるじゃん。唇の裏側があのくじ引きの景品リストか言うくらいルアーが並んで刺さってるその池の主のブラックバス、そういう暴れ方を俺が抱いても息子はするだけだから、一回このモード入っちゃうと、もうお母さんに抱っこされる以外に彼が大人しくなる可能性はゼロになっちゃうんだよね、歯がゆいながら。それで、息子がそのモードに入っちゃったから仕方ねえなーつって、ベビーカーの安全ベルトみたいなの外してあげてさ、嫁さんに抱かせてやるわけ。そしたら当然、嫁さんは息子を抱いてるので両手は精一杯だからさ、吊り革やらポールなんかに掴まる余裕もないから、俺は一応ホイールにストッパーかけたベビーカーも気にかけつつ電車がカーブに差し掛かった時に両手が息子で塞がった嫁さんがよろめいたり倒れたりしないように寄り添いながらやるしかないんですけど。

まだ言うて目的地まで30分くらいあるんじゃねえかなって考えたら、俺も大変だし、何より息子を抱えた嫁さんも大変だし、ちょっとした遠路、覚悟してたことだけど参ったなこりゃと思って。せめて嫁さんだけでも座れれりゃな、とは思うわけです。もちろん俺は突っ立って、ベビーカーを制御してるとかでいいんですけど、10kg以上の肉塊を抱えた嫁さんだけでも座れさせれたらなーって思うんですけど、まー、電車の中が混んでるのはわかってるしね。混んでる時間帯なのも分かってるし、みんなまだ眠いし座りたい時間なのも分かってるし、まー、仕方ないんだけどね。仕方ないんだけど、ふって見たら、さっきまでうちの息子に「かわいいねー」「お利口だねー」て話しかけたババア二人がね、さっきまでそうしてたはずのババアがね、すっげーー虚空を見つめてるんですよ、俺が目を合わせようと思ったら助走つけてジャンプして電車の天井に頭ぶつかるくらいの勢いでジャンプしてから見下ろすとかしないと絶対目が合わないくらいの勢いで中空の虚空をみつめてんのね。

あの、猫がさ、たまにやるじゃん。何もない天井付近を見つめてるやつ。しかも、見つめてるのは天井じゃないんだよね、あくまで天井付近の虚空を見つめてて、「え、お前なにが見えてんの?怖っ!?」のやつあるじゃないですか、この家が事故物件なのかどうか検索したくなる猫のやつあるじゃないですか、あの猫の顔になってるんですよ、さっきまでうちの息子にちょっかい出してたババア二人が。

いや、これはね、「席譲れよ」って話ではないんですよ。いや、そりゃ少しは思うけどね、ババア席譲れよ、って。だってさっきまでお前ら、うちの息子いじってたじゃんかって。錦鯉の柄を褒めるノリでうちの息子に絡んでたじゃん。そこ一回触ってこっちが求めてない和気藹々を繰り出してたくせに、いざこっちにちょっとトラブルが発生したら、そんな!すーん、て。そんな、すーん!てしなくてもさぁ。もう今のお前の顔を今すぐスマホで撮って辞書の「知らぬ存ぜぬ」の項目の横に挿絵として載せたいよくらいの、すーん!をかましてるわけなんですよ。かわいいっていうかただただ怖いだけの猫の表情でババアが俺らから顔を背けてるわけ。もう、怖いやら面白いやらなんやらで、笑いそうになっちゃって僕。電車に揺られてよろめく嫁をホールドしながら。

繰り返すにこれね、「席譲れよ」って話ではないんですよ。お前の中で整合性どうなってんだって話なんですよ。

ババアよ、平時の時はこっちからしたら鬱陶しいのに、うちの息子に絡んどったな?今うちの子供2歳前後だから言われんかったけどもうすこしうちの息子が幼かったら「母乳?」って聞いてきそうなテンションで絡んできてたな、ババアよ。いいよ、絡むのは。「母乳?」も別に許すよ、お互いの価値観は許容すべきもんだからな〜〜〜!!!それがお前の隣人の赤子に対する接し方ならまあ勘弁したるけど、いざ、こっちが困った事になった時にすーん!てなるのはどうなんだよ!!ババアよ、お前の中のダイバーシティ、おかしくないか??なんでそこですーん!としたのかが俺にはわからないんだよ、ババア。

で、また、こういうババアに限ってだいたいハイキングルックだからさ、お前体力有り余ってんじゃねえかとか思うしさ。お前、そうやってよそのガキ、目当ての山だか寺だか知らねえけどそこに向かうまでの電車の道中で、優しい年寄りキャラとしてガキをいじった後に、ガキがぐずり出したらすーん!として、席を確保して、そうして登る山は楽しいのかい?そうして登った山で叫ぶ「やっほー」は山彦としてちゃんと返ってくるのかい???俺が問い詰めたいのはそこなんですよ。

いや、本当にいいんだよ、席を譲って欲しい話じゃないんだけどさ、じゃあせめてそこでババアカードを切れよ。なんのためのババアなんだよ。そこで優先席きってのババアであるお前らがさ、優先性最上級国民であるババアのお前らがさ、俺たちに席を譲ろうとしろよ、俺たちは「いえいえそんな」て言うけどさ、そりゃだってお前らがそれなり山彦迎えに行くルックスだったとしてもそれなりに立ってるの辛そうなババアなのは俺らにはわかってるんだから、そこはこっちも固辞する準備もあるんだよ。でも、それがババアカード切らない理由にはならないんだって。ましてや、お前ら、さっきまでよそのガキいじって悦に入ってたんだから。お前が親切ババアカード切ったら、そしたらきっと周りの奴らが動くんだって、何かしらのラケットが入ってるカバンを持った男子大学生とかもその横にいたしさ。

んー、ラクロスかなー!でかさ的に!知らねえけど!

お前らが「優しい社会」を目指して空気を動かしたら、社会は動いたんだってババア。お前だって、うちの息子いじってたじゃんか。なんだよすーん!て。

あとなんだよこの話!!恩を仇で返された話なのかな。いや、そこまで恨んでもいないんだけど。いや、やっぱ根っこは「お前の中での整合性どうなってんだよ」かな。席譲れよとは思わないけど、席譲るとかそういう親切までやるつもりがないなら気安く他人に話しかけてんじゃねえよ、「他人同士がつながる地域社会」の良い部分だけ担って、都合が悪い時はすーん!てしてんじゃねえよ。

まー、教訓にするしかないよね。「俺はこんな老人にはならねえ」と思うしかないよね。なりたくねえわ、まじで。これからもひとりの時は席を譲り続けて、そのまま妊婦とか子連れとかに席を譲る老人になるしかないよね。あの虚空を見つめるババアの虚ろな瞳を胸に刻みながら。

あとは、「あと一駅なので」って断っちゃったけど、そのあと席を譲ろうとしてくれた別のババアありがとね。悪いひとばかりじゃないし、山彦を迎えに行くすーん!としたババアも別に悪いわけじゃないんだけどさ。

そんな感じ。そんな感じの話でした。

以上です。

 

「他者に正しい価値観や規範を内面化させたい」という欲望

先日、大学時代の後輩の男と久しぶりに会って酒を飲んでいたらこんな相談を受けた。

職場で男性社員同士が女子社員を品定めして順位をつけるようないわゆる下世話な話をしていて、その話に混ぜられそうになるのが嫌だ、と。

あまり角を立てるのは本意ではないが、どう言うのがうまいだろうか、という話であった。

で、僕は自分の職場でそういう会話が発生してたら何ていうかなーと考えた結果、「少なくとも自分のいるところではそういう話は控えて頂きたい。自分のいないところでも他に女性スタッフがいるところでは控えるべきだろう。できれば勤務中にそういう話をすること自体もない方が好ましい。そういう話が好きな男だけの飲みの席で身内で楽しむ分には止める権利はないかもしれないが、その文脈を会社に持ち込むのは極めて好ましくない」とかになるかなぁと考えた。

まぁ、実際これを言える人そうでない人がいるし(僕は会社ではそこそこそういうの言える立場とキャラクターだし、実際に僕は下衆な話題になりそうになるとあからさまな否定にならないように同調の素振りは見せつつも「つまらないし美しくないのでやめましょう」と切って落とすので、少なくとも僕の前でそういう話題が出ることはなくなった)これを伝えたところで反論したり構いやしないって人というのもいるだろうが(幸いにも自分の職場にはそういう人間はいないようだ)、僕が言うとしたらこんな感じになるかなぁと伝えた。

後輩は「それだけなんですか?」と不思議そうな感じで「もっとそういうのはハラスメントで良くないことだとか、そういう話は愉快じゃないとか、どうしてそういう話をしないべきかとか、そういうことは言わないんですか?」と聞いてきた。

で、僕がその場で思いつくまま喋って返したのは「うん、だって、そういう話が会社でなくなればいいんでしょ?じゃあ控えるべきだ、って伝えて、それで向こうがそれを理解したならそれで終わりで、それ以上何を望むの?」みたいな内容だった。彼がそれ以上の何を望みたいのかは、まあわかるんだけどさ。

僕は得たい結果を最小コストで得たい人間なので、今回の件でいうと「そういう話が会社でされないようになってほしい」が求める結果だ。「そういう話をする人たちに性根を改めてほしい」は考えないものとする。そっちもセットで実現しようとするのはものすごく大変なことだし、そっちもミッションに追加してしまうことで一つ目のなんてことないミッションをクリアする難易度もベリーベリーハードになってしまう。それはとても非効率的だと思う。結果が見込みにくい努力は徒労だ。まずは、一つ目のミッションをクリアさえしてしまえばそれでいいではないか、一度に多くを望みすぎてはいけない。僕はそう考える。

そこで思ったのだが、この「少なくとも私の前でその話は控えてほしい」という言い回しって、どこまで有効に扱われるものなのだろうか。例え話で考えてみたのだが、僕に「下衆な話は私の前では控えてほしい」と言われた相手が「なるほど、了解した、控えよう。代わりに、私は私で控えるので、そちらもフェミニズムがどうとかハラスメントがどうとか、そういう話を私の前でするのは控えてほしい」と言ってきた場合はどうだろうか。僕は完全にアグリーする。むしろ、最初からそのつもりだ。そちらからすると、煩わしい耳に障る話なのだろう、言われれば反発したくもなるだろう。だから僕はアグリーだ、君がそういう話を控えてくれるならそれでいい、僕はそれ以上を君に求めない。僕ならそうなる。

けど、一般的に考えて「私の前でフェミニズムの話は控えてほしい」なんて言ったら、まーバチクソ怒られるだろうね。なぜバチクソ怒られるのか、を考えた時に掲題の言葉が頭をよぎった。

「他者に正しい価値観や規範を内面化させたい」という欲望が人にはあり、そしてその欲望は現代において概ね肯定されているようだ。

しかし、それは本当に肯定されるべきものなのだろうか?僕の考え方から言い換えられるなら「肯定されるべき」とすることは果たして効率的なのだろうか?どうもこのあたりに世の中の断絶が深まる要因が隠れている気がする。

一例を挙げれば、先日ツイッターで「ハラスメントに厳しくなっていく世の中に『生きづらい世の中になった』という人がいるけど、そんなことで生きづらくなるやつは一生生きづらさに苦しめばいい」みたいなツイートを見かけて、それがものすごくリツイートされてものすごくいいねされていた。

僕はそれを見て、「『生きづらい世の中になった』も控えていただきたい」にどうして人は留めることができないのだろうと思ったのだった。

まあ、わかるんだけどね。僕は今の自分の環境においては「控えてください」を言える状態にあるけど、それはまあ僕がたまたま恵まれてるからで、「やってられねえ」環境が世の中にゴマンとあるのも理解している。向こうがクソみたいな全時代的な価値観(たとえば、女はセクハラされても我慢するのが当然、とか)をこちらに内面化させようとしてくるクソみたいなイベントがあるので、それに反発するために自分の内面化された価値観をアップデートするために、自分を奮い立たせなくてはならない人たちがいるのもわかる。それが必要な人たちがいるのもわかる。

でもやっぱ、それで相手の間違った価値観や規範をなんとしても上書きさせたい、振る舞いだけではなくその内面まで変えてもらわないと納得いかないというのは、端的に言って無理があるんじゃないかなぁと思う。

そういった欲望を持つ人を否定はできないけど、僕はそういった欲望を肯定して自分の中にもあるだろうそういう欲望に身を委ねたくない。なぜなら効率が悪いから。俺は効率厨だから。

なので、「他者に正しい価値観や規範を内面化させたい欲望」を、もう少しコントロールしてみようよ、頑張ってみようよなんて言えない。できない人はやらなくていい。できる人がやればいいから無理してやったりなんかしなくていい。それでも、そう言われてみればもう少し頑張れるかもって人の目にこの文章が触れてくれればなーって思う。そう思える人が増えればいいのになーって思う。

価値観や規範はなかなか変えられなくても、振る舞いくらいなら案外人間変えられるから、まずはそこだけ変えようよって感じで、それで振る舞いだけでも変われば関係性も変わって、それで一人でもどうしてこの振る舞いだとこんなに心地よい関係性になれるのかなって思ってくれれば、その人が「振る舞いだけじゃなくて、もう少し知りたいです」って言ったら僕はその時に初めてその人と「控えてください」以上の話をしたいし。

青臭い話をしてるのはわかってるし、怒られる話をしてるのもわかってるんだけど、少なくとも僕はいつまでもそうしていたいなぁと思っている。

以上です。

 

「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」への反論

タイムラインにこの記事が流れてきて「まぁそうだな」と思った。

で、この記事に対して掲題のような批判が溢れかえってるのも目についた。

なのでこれを書いている。

「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」について僕が思ったことは「いや、直接の被害者遺族はそんなこととても言えないだろうしそう言う必要もないだろ」だった。

そして、だからこそ当事者じゃない誰かが「それでも誰かが言わなくちゃならないこと」を言うべきなんだろうと思う。そしてこの記事の筆者はまさにそれをやっているんだと思う。

自分の家族が殺されてしまった人にそんな殊勝なことを言えとはとても言えない。言えるわけがない。決して無理に言わせたりなんかしてはならない。

しかし、そのような視点を社会が持つことが同じような理不尽が繰り返されないために必要であるならば、それなら代わりに当事者ではない誰かが言うべきだ。

もしかしたら今不幸の只中にあったのはどこかの誰かではなく自分であったかもしれない。この事実は誰にとっても恐ろしく堪え難い。

しかし、ならばこそ、今不幸の只中にたまたまおらずにいる人々は、当事者でないからこそ当事者には到底引き受けられない役割を探して、その役割に向き合うべきなのではないかと思う。

理不尽に怯え、無力感に苛み、理不尽をただ恨み、憤りに身を任せることは簡単だ。

しかし、実際に私たちがそれほどまでにただ無力であるかについては未だなお疑問だ。

自分の家族が殺されたわけではないからこそ、もし殺されていたのが自分の家族だったとしたらとてもとても向き合えない問題に向き合いたい。

当事者だからこそ言えることがあるように、当事者ではないからこそ言えることできることを探したい。

簡単に社会は人間は無力だと諦めたくない。

きっとどうにかできたはずだ、もう少しマシにできるはずだ、そう思っていたい。

もちろん僕がそんな風に考えられるのも自分が当事者じゃないからで、自分の家族が殺されても同じことが言えるのかと問われれば僕は全くそんなことできるわけがないと思う。

しかしそれは当事者と非当事者にどうしようもなく分断されるしかないゆえの役割分担の問題で、ダブルスタンダードとかとは全く別の話なのではないかと思う。

逆に言えば、どこかの誰かのその悲しみと怒りに同化しなければ、自分が当事者になった時に悲しみと怒りに身を任せる資格がないという話でもないのだと思う。

みんな怖いしみんな辛い。

その中でできることを探して、誰かにはできないけど自分にはできることを探して、少しでも世の中をマシにしたい。そういう世の中であってほしいと思うから僕はそうしたい。

何も当事者であることばかりが宿命ではない。万人に万人の宿命がある。やるべきことが、向き合うべき問題が、立ち向かうべき理不尽とそれぞれの宿命に応じた立ち向かい方がある。

てめえのためとてめえの愛する隣人のために僕は今てめえにできることを探したい。そう考えることをいつまでも諦めたくない。

以上です。