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hagexさんの訃報に触れて

サッカーには興味ないので日曜の夜はさっさと寝て、月曜の朝の電車通勤はとりあえずジャンプを読まなくてはならないのでスマホにも触らず、下車駅に着いたところで時間を確認しようとスマホを手にしたついでにツイッターをなんとなく開いたらタイムラインはくだんの話題で大騒ぎで俺もそりゃあ面を食らった。

他人事でないと言われればまあ他人事ではないなとは思う。僕もなんだかんだ5年だか6年だかはてなでブログを書いていて俺はこう思ってんだ思ったこと書いて何が悪いんだという調子でずっとやっているのでズイショというネット人格は色んな人に好かれたり嫌われたり執着されたりしているのだろうし、実際に事実としてそうであることを身に沁みて感じる機会にもそれなりに恵まれている。そのうえ呼ばれりゃのこのこリアルで会いに行く性分なので、ネット人格として刺される第一号が彼ではなく俺であった可能性なんて全然0じゃなかったんだろうし、俺が「ズイショとして」刺される可能性はhagexさんが刺される前も刺された後の今も同じように存在し続けるのだろう。

ただそう思う一方でそれがどれだけ特別なことなのか考えるとよくわからなくもなる。

今朝からこの事件に関する色々な人の色々なテキストに触れているが、そこでしばしばネットで発信すること、ネット人格を持つことのリスクだとか覚悟だとか矜持だとかの話になっているのを見かけるものの、この事件から私たちはそれについて考えるべきなのか、この事件の問題点は本当にそこにあるのか考えれば考えるほど、疑問符が喉輪のようにぶら下がる。

現時点で読むことができるテキストに当たり概要が見えてくれば見えてくるほどに、たとえば新幹線で人が殺された時に誰も「それでも新幹線に乗る大義」の話なんかしていなかったように、今回の件もそんな風に考える必要なんてないのではないかとも一方では思うのだ(この事件の理不尽さとこの事件を痛ましく思う無念が人にそう考えさせずにはいられない、ということはわかる)。

それが自業自得なのかどうかは全然置いておくとして、世界にどうしようもなく追い詰められた人は、自分を追い詰める世界の象徴を殺すしかなくなるのかな、みたいなことを思った。その世界の象徴が何なのかは、人によってそれぞれで、それははてなの著名なブロガーなのかもしれないし、地下アイドルなのかもしれないし、腐女子に人気のバスケット漫画なのかもしれない。あるいは象徴は人ではなく場所であるかもしれない。それは秋葉原かもしれないし、小学校かもしれないし、障害者施設かもしれないし、新幹線かもしれない。そういう風に考えれば、はてな村の住人なら誰でも良かったのかもしれないし、地下アイドルなら誰でもよくてたまたまその時その人が目についたのかもしれないし、売れてる漫画なら何でもよかったと言えば何でもよかったのかもしれない。

この事件が、著名なブロガーが著名なブロガーであるがゆえに殺されてしまった事件なのか、単なる無差別殺人のひとつの形なのか、そこを疑問符が首から外れるまで考えたい気持ちが僕にはある。

本件を「言論に対するテロ」みたいに解釈する向きが既に出てきているが、本当にこれってそういう話なんだろうか。僕はインターネットを楽しく本当に当たり前に満喫していて、インターネットのお陰で幾人もの尊敬できる友人を得ることができて、その機会を与えてくれたインターネットに感謝こそすれども、これは特別なことなんかじゃなくて当たり前なんだ、インターネットが僕たちに与えてくれたものは何と戦うでもなしに当たり前に享受していいものなんだと思っている。だからこの件を僕たちがインターネットで遊んでいることへの問題提起だとか宣戦布告だとかテロだとか考えてしまうのも、相手の思うツボなんじゃないかみたいに考えてしまうのだ(この相手というのは本件の犯人ではなく、もっと漠然とした何かだ)。

「新幹線に乗るのも考えものだ」なんて絶対変な話だと思うし、じゃあ同様に「ネットで有名になるのも考えものだ」も変な話だと思う。むしろ、ネットで有名になることは新幹線に乗るくらいふつうで当たり前のことだ、みたいに考えてもういいんじゃねえのかなと思う(人が死んでるんだからそれで良い訳がないんだが)。

インターネットなんざやってようがやってなかろうが、僕たちはうっかり誰か他人にとっての「象徴」になりうる。幸せであるだけで、金を持ってるだけで、子を授かっているだけで、男であるだけで、女であるだけで、ジョンレノンであるだけで、あらゆる理由で私たちは誰かにとっての「私を苦しめる世界の象徴」にされる可能性がある。誠に理不尽だ。その理不尽を理不尽のまま受け入れることこそが、理不尽と戦う唯一の方法でないかとも思うのだ。

理不尽に誰かを殺さなくてはならない象徴に認定して殺しにかかった事件を、なにかの象徴にしてはいけないんじゃないかと思う。理不尽は、なにかの投影でも象徴でもなく、ただただ理不尽なのだ。

理不尽な凶行の犠牲になったものがその理不尽を生んだのではない。理不尽な個人の暴走を産んだものは実際のところ何なのか。それを判明させて取り除かない限り、理不尽は続く。理不尽にも象徴に認定された誰かが殺され続ける。それは男かもしれないし、女かもしれないし、子供かもしれないし、老人かもしれない。はてなブロガーかもしれない。そこに意味などない。それが理不尽なのだと思う。

 

書き始めてみると思いのほかとっ散らかった。俺が言わなくては、と思うことなんか無くて、何か書かなくてはと思って書き始めたんだから、まあこんなもんだろう。理不尽な殺人が起きた時、人はあまりの理不尽に耐えきれず、そこに意味やらなんやらを求めてしまうけれど、それがただ空虚に「なんとなく」で自暴自棄に人を殺めた犯人に「自分がやったことの意義」を与えてしまうようで、俺はいつも嫌な気持ちになるのだ。俺はそういう奴らに「お前はただ癇癪を起こして無闇に人を殺めたクズだ」とただ言いたい。彼らの行動に一縷の論理も与えたくない。彼らの行動が、一分の隙もなく間違った選択肢を選んだ結果だと社会が認識するようになって欲しい。

だから、なんつーか、hagexさんの生き方とhagexさんの死に方に相関を見出すような考え方が俺はどうしてもどうしても嫌なのだ。俺が嫌なだけなんだけど、俺は否応が無しに今どうもそう考えているらしい。

 

hagexさんのことは、たぶん俺はどちらかというと好きだったんだと思う。ブクマしたりされたり、言及はしたことあったろうけど、されたことはないのかな。たぶん、ズイショという人格自体は認識されてはいるのかな、多分だけど。くらいかな。

今回の訃報に寄せて彼の人となりを知る人のテキストがぽつぽつと出てきて、彼の実際のところの人となりなど知る由もなかった僕はそれを読んで、やっぱり彼を好きだったのは間違ってなかったんだなと思う。こんな形で読みたくはなかった。でももう彼が彼自身について語ることはもう無いのだから、彼の生き方に触れた誰かのテキストをもっと読みたいなと思う。願わくば、それは彼の死に方と切断された形で。

彼はセンセーショナルな死に方をしなくたって、十分に語るべきところのある人だったのだろうと思う。交通事故で死んだ人の人となりをさんざ語ったあげく「そんな人だから交通事故に巻き込まれたわけで」とはならないように、そういう風にhagexさんという人柄が語られてるのを見て悼みたいなと思う。やりきれないな。以上です。

僕の考えた最高のジョジョ5部実写版キャスト

ジョジョ5部のアニメ化が発表されたのでその次にやってくるであろう実写化キャストについて少し気が早いですが大胆予想です!!

 

ゴールド・エクスペリエンス:染谷翔太

 

スティッキィ・フィンガー:武井壮

 

ムーディー・ブルース:りゅうちぇる

 

セックス・ピストルズ:近所の池の水全部抜くのロケに来てた男子小学生6人

 

エアロスミス:アキラ100%

 

パープル・ヘイズ:カズレーザー

 

スパイス・ガール:菊地凛子

 

ミスター・プレジデント:パイプレイヤーズ一期のシェアハウスのセット

 

ブラック・サバス:伊勢谷友介

 

ソフト・マシーン:ノンスタイル井上

 

クラフト・ワーク:尼神インター誠子

 

リトル・フィート:あばれる君

 

マン・イン・ザ・ミラー:菜々緒

 

ザ・グレイトフル・デッド:綾野剛

 

ビーチ・ボーイ:松方弘樹の遺品整理ロケで梅宮辰夫がロバート秋山と相談しながら選んだ釣竿

 

ベイビィ・フェイス:鈴木福

 

ホワイト・アルバム:そだねージャパンのユニフォームを元にきゃりーぱみゅぱみゅの衣装デザインを担当する飯島久美子が完全監修

 

メタリカ:佐藤健

 

クラッシュ:森三中村上

 

トーキング・ヘッド:横澤夏子

 

ノートリアス・B・I・G:籠池泰典

 

グリーン・デイ:桑田佳祐

 

オアシス:香取慎吾

 

キング・クリムゾン:北大路欣也

 

シルバー・チャリオッツ・レクイエム:CG(モーションキャプチャー:野村萬斎

 

ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム:レオナルド・ディカプリオ

 

ローリング・ストーンズ:渡辺いっけい

 

以上です。

ちんちんとは何か、それはまだ誰も知らない

これは他所の育児家庭にも一度お試し頂きたい我が家の慣習なんですが、まー僕は平日早くには帰れないんですね。仕事の都合上、どうしてもそんなに早くは帰れない。なので平日は嫁さんに子供のことわりと任せっきりで。具体的にはそういう伝説が残ってる集落に日没と同時に一軒一軒台所の流しの向かいにある小窓に小石をコツンコツンと投げぶつけるって業務がありますんで、日没始まりでその業務始めて集落の戸数がだいたい80なのでもう終える頃には真っ暗ですよ。そっからセグウェイで帰るってなったらもーそりゃ家に着くのはそれなりの時間ですよね。延々砂利道をセグウェイですから。でもね、その小窓に小石がコツンとぶつけられることで「ああ、今日も一日何事もなく終わったことを牛神様が祝福してくれているんだな」ってその集落の人たちは全員思いますから、僕の仕事はすごく意義がある、めちゃめちゃ素晴らしい仕事ですけどね。日給はくるぶしソックス4足セットですけどね。それをメルカリで売って生計を立ててるんですけど。息子のおむつとか買ってるんですけど。

んで何だっけ、そうだ、だから僕平日は子供を嫁さんに任せっきりで、夕方の子供をお風呂に入れるのとかも普段嫁さんに任せっきりなの。僕と同じようにそういうお父さんたぶん世の中にたくさんいると思うんですけど、いや、事情はそれぞれだし様々子細なところは違うかもしれませんよ、「いや、私は同じような仕事してるけど、日給じゃなく時給がアルトバイエルン一パックですよ」なにそれ、高給取り~~みたいな、そういう差はあるかもしれないですけど、まぁいると思うんですけど。ここでありがちなのが「じゃあ休みの日の土日くらいは俺が風呂に入れてやるよ」ってなりがちじゃないですか。我が家も最初の頃はそうしてたんですけど、どっかから「いや、これおかしくね?」って話になったんですよ。そもそもなんですけど、一人で一歳にも満たない赤ちゃんをお風呂に入れるのってすごい大変なんですよ。合理性考えると自分のお風呂も当然兼ねることになるわけですけど、自分の体洗って子供の体を洗って風邪ひかせちゃいけないから子供の体は拭き、しかし自分の体も当然濡れてるし、髪を乾かすよりも先に赤ちゃんの体に保湿クリームを塗ってやったりなんやったりで風呂入ったら赤ちゃんは眠いし髪は乾かしたいけど眠いから泣くしみたいなまーとにかく大変なんですって。やったことないけど何となくわかるよ。それに対して二人がかりだと子供とのお風呂はすごく楽しい。もう一方が普通に相手してあやしてやってる間に自分の体も丁寧に洗って、自分をきれいにするのが終わったら子供をお風呂に呼んで、子供と楽しくお風呂に入って、そしたら子供を先に出してもらってもう一人が子供の体を拭いてクリーム塗って服を着せてやってってやってるあいだに自分の体も拭いてキレイにして髪も乾かして、って考えると。一人でガキを風呂に入れるのは苦行だけど、サポート一人ついててガキを風呂に入れるのは娯楽なんですよね。このすんぽーでいくと、「休みの日は俺が風呂に入れてやってるから!」なんてのは娯楽いいとこ取りじゃねえかって話に我が家ではなりまして、我が家は休日は嫁さんがまず風呂に入り、落ち着いたところで嫁さんに俺が息子を手渡し、落ち着いたところで僕が息子を受け取り世話をしてるあいだに嫁さんが身支度を済ませます。迎えに行った時に見る、湯船に浸かりながらなんかおもちゃとかで遊んでる息子がかわいいのでちょっと羨ましいがこれでいいのだ。

そんなおいしいところを嫁さんに譲るお風呂イベントでも面白いことは何かしらあって、最近はあたたかくなってきたので、嫁さんが風呂に行ったと同時くらいに息子の服をもう脱がせとくんですね。別に寒くねえだろうし、そろそろ連れてきてーって言われてから脱がすのもめんどくさいんでパーっと剥いちまうんですけど。

そしたらなんか息子がすげー自分のちんちん掴むの。

なにこれ?なんなん?なんやこれ?って感じでめちゃめちゃ掴みまくるんですよ。そんな掴んで痛くないんかってくらいめちゃめちゃ掴みよる。やっば気になるんだろうね、寝返りもハイハイも掴まり立ちもできるようになった。離乳食もモグモグ食べる。手も足も口も自由自在に動かせるようになった(俺から見るとまだ雑魚だけど)。そんななかで「ところでこの股についてる何一つ俺の意思どおりに動かない俺の一部っぽいコレなに?」って彼の中でなるのは当然だと思うんですよね。それがなんか俺の中でめちゃめちゃ面白くって。彼のその「ところでコレ何?」という問いについては現時点で父親である俺にとっても「ソレがなんなのか、厄介であること以外は俺にもよくわからない、俺も今、模索中」ってなるのがめちゃめちゃ面白くて。

いや、息子よ。お前の「なんやこれ?」って勘、めちゃめちゃいいセンいってるよ。なんやろな、それな。お前のその興味の持ち方、警戒の仕方、分析の対象にしようとするその態度、めちゃめちゃいいセンいってる。なんやろな、それ。

ある人は、それに振り回される。ある人は、それをぶらさげているというだけで、それをぶらさげている人と扱われ面倒な思いをする。ある人は、それが自分についていることに違和感を持つ。あーちんちんがついていてよかったーって言う人は世の中にたくさんいるだろうが実のところ「ちんちんがついていてよかった」人なんか一人もいないんじゃないかとも俺は思う。そんなものをわざわざ引っさげてこの世に爆誕した息子よ、気の毒だな、と思う。そんな自身の境遇を知ってか知らずか、お前はワシワシと己のちんちんを眉間に皺寄せて掴む。

 

彼は最近できることが増えてめっきりわがままになった。自分の体を自由に使って自己主張できるようになった。食事の時間だからとおもちゃを取り上げると泣いて抗議する。座らされた机をバンバンと叩いて抗議する。今までは犬が西向きゃ尾は東と言った調子で横に抱いて寝かしてやっていたところが、最近では寂しい気持ちの時はそれを頑なに拒むので縦に抱いてやるしか仕方なく、彼は僕の首にしっかりと自分の腕を回してそうして安心を感じながら微睡んでゆく。彼は選ぶようになってゆく。自分の思うままを実現したいと欲を出すようになってゆく。彼は、理想を、持ち始めている。しかしそうはいかない。そんなに世の中うまくない。自分のちんちんをなんぞの顔で掴む彼の顔を見るたび、僕は笑けてしまうのだ、彼の前途多難に。

君は、好きに生きろ。しかし、君は好きには生きれない。ままならない生をお前はいかに満喫するのか、見れるところまでは見たいと思うし、見せれるところまでは俺の生も見せたいと思う。

ちんちんとは何か、僕も、息子も、それはまだ誰も知らない。

 

以上です。