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#架空の地上波カットシーン選手権

http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2018/01/08/224129

君の名は。』見て、昨日感想書いてたんですけど、感想書いたらそら今度は他の人の感想も読みたくなりまさぁな。それで見てたら面白いの見つけまして。

http://junk-weed.hatenablog.com/entry/2018/01/03/235839

もともと映画館上映バージョンにも存在しないシーンを「地上波だとカットされてた!」と主張してる人が少なからずいるらしいんですね。該当のシーンは自分のなかでも何かカットされてるのか、結局どうなったまま現代に舞台を戻す演出なのかどっちかなーって思ってはいたのだが、結論としては後者が正解なんだけど、前者だ!と言い張る人がいるらしい。
そういえば自分も最近似た現象の当事者になったことがあって、シン・ゴジラやってたじゃないですか、あれはぼく映画館で一回見てたんですけど。あれで、総辞職ビーム急だなって思ったんですよ。CM明けいきなり総辞職ビーム始まるんですけど、もうちょっとその前に米軍の攻撃シーンに尺割いてなかったっけ?カットかな?って思ったんですけど、これも調べたらそんなことないらしいですね。いやー脳って本当に不思議ですね。

 

というわけで、 #架空の地上波カットシーン選手権 を開催します。

 

ターミネーター2でシュワちゃんハンバーガーを食べさせようとするも拒否されるシーンが地上波ではカットされている
天空の城ラピュタのわりと序盤の鳩たちが追手の邪魔をしてくれるシーンがカットされている
ホームアローン2のマコーレー・カルキンが鳩おばさんが鳩を頭から食べるところを妄想するシーンがない
アルマゲドンブルース・ウィリスとAJが瓶ビールで乾杯するシーンがどっかであったはずなのにない
おおかみこどもの雨と雪の、雪が山遊びから帰ってくるたびに靴を失くしてくるシーンがない
釣りバカ日誌16のハマちゃんが女装で切り抜けようとするシーンがない
カリオストロの城にもルパンが身代わりの術みたいに一瞬でパンツ一丁になるシーンが絶対あったはずなのにない
・タキシードのジャッキー・チェンが敵の口にハーモニカを突っ込んで音が鳴るシーンがない
アウトレイジ椎名桔平の生首はさすがにカット
少林サッカースカイラブハリケーンオマージュのシーンがない
・スピードのバスがジャンプするシーンはいろんな角度から何度も繰り返しスローモーションで流れるけど真下から撮ったシーンがない
ジュマンジロビン・ウィリアムズがトイレで用を足してたらテッポウウオがウォッシュレットしてくれるシーンがない
GANTZで全裸の夏菜の局部が二宮和也の後頭部で見れないシーンがない
・ポニョのトンネルに入る前に宗介がポニョの顔を見ながら頬をぎゅーっとつまむシーンがない
マトリックスで黒人がサングラスをキアヌに渡す際に「目を見せると心理を読まれる」みたいなことを言うシーンがない
・初代スパイダーマンのピーターががたいの良いクラスメイトになぜか無駄にロッカーに壁ドンされるシーンがない
プリティ・ウーマンジュリア・ロバーツがジャグジーに入ってるシーンで鼻に泡が乗ってたはずなのにない
・宮迫の「妖怪大戦争やーーー!」は二回あったはずなのに一回しかない
シュレック3で藤原紀香藤原紀香感溢れる関西弁がちょっと出てしまってるシーンがどっかにあったはずだけどない
・ALWAYS三丁目の夕日堤真一が炊飯器を抱えて走るシーンがない

 

以上、第一回 #架空の地上波カットシーン選手権 でした。

こんなに眩しい東京初めて見た。『君の名は。』感想文

♪ I have a 前前~~~~~~~ I have a  前世~~~~ Ah!  前前前世!!

どうも~~~~~~、野田洋次郎で~~~~~~~~~~~~す!!!!!

あの、あともう一つ出だしの候補として前前前政権ってのがあったんですけど、数えたら前前前政権は菅内閣だったんで、それはちょっと危ねえなと思って。あんま軽い気持ちでいじっちゃいけないやつが菅内閣の時代にあったから、急遽登場しました、ヒョウ柄の、野田洋次郎で~~~~~~~~~~~す!!!!!トゥース!!!!

そういうわけで今日も野田と若林、二人で楽しく漫才やっていこうと思うんですけどね。杏の旦那役って思ってる人と弟だと思ってる人の比率知りたいな思ってるんですけど、これ伏線でも何でもなく、ただ思いついたこと書いてるだけだから戻りますけども。

いや、そういうわけで見ましたよ、地上波初登場、『君の名は。』!!

このブログもね、なんやかんや四年とか五年とかやって定期的に多くの人に読まれる文章が書けて怒られたり共感されたりしてますけど、何を隠そう初めてのホットエントリーは『君の名は。』と同じく新海誠監督の『秒速5センチメートル』が超つまんねえ、超気持ち悪りっ、って書いた文章で、すげえたくさんの人に怒られてたんですけど、別にリンク貼ってもいいけどそれも露悪的すぎかなと思うので*1興味ある人はまぁググってって感じなんですけど、そういう経緯があった手前ね、俺自身としては「見て、感想書いて、気が済んでおしまい」が健全だと思うんですけど、初めての怒られバズだったもんでね、思い入れではないんですけど、やっぱ同じ新海誠監督が当てに当てた本作を見ておいてブログに書かずスルーするとズルいんじゃないかなみたいなのもあって、まぁ一応感想なんかは書きまさぁわな。だから、この文章はどっちかというと書いているというより書かされているんでさぁな。

とりあえず、面白いか面白くないかでいうとめちゃめちゃ面白かったですよね。ケチをつけるところがほぼほぼなかった。特に家で映画を見てるとね、定期的に「今の再生時間」を見ちゃう悪い癖があるんですけど、そこのところから言ってもペース配分からして完璧だった。このペース配分の下りを踏まえての完璧っていうのは、ディズニーとかピクサーがそこらへんのペース配分が完璧なのと同様に完璧だった、ってことですね。正直なにせこんだけ売れてるもんですから「めっちゃおもろいやん」か「逆張りって思われるのダルいから売れんとってほしかった。全然おもんない」のどっちかになるかなと見る前から思ってたんですけど、結論から言うとめちゃめちゃ良く出来てて面白かった。

ただ、めちゃめちゃ面白かったんですけど、この映画がぶち立てた業績がすごすぎるので、そこを鑑みると「そこまで面白かったか?」と思う部分もないわけではなく、ちょっと悩ましいんですが、そこはよくよく考えると俺のなかで早々に結論が出ていて、この映画がなぜこんなに爆発したのかというと、自分の浅学を承知で言うに「こんなに美しい東京は見たことがなかった」ってことなのかなと思ったんですよね。

ここまでさんざ自分語りしておいて突然普通に作品のネタバレを始めますけど、三葉が初めて瀧くんの身体に入って一日を始めるシーンあったじゃないですか。あそこがめちゃめちゃ眩しかった。あんなに眩しい東京を、俺は初めて見たよ。

日本国民みんなテレビ見てますけど、テレビの舞台になるのって大体が東京じゃないですか。田舎者なら誰しもが憧れる、あの東京なんですよ。けど、そこに映されるのは東京に住んでる人らが撮った、東京に住んでる人らが案内する「当たり前の東京」で「憧れの眩しい東京」ではないんですよね。例えば東京をぶらぶら芸能人が歩くしょーもないロケ番組を地方の人間が見たとして、それを見て感じるのは「憧れの東京」ではなくって、「憧れの東京を日常として歩く東京人」だったりすると思うんです。それはそれで見てると「いいなー」と思うと思うんですけど、それとは別に、田舎者がすごく大事にしている「憧れのキラッキラしている、ピッカピカの東京」ってのが田舎者の胸の内にあるんじゃないなと僕は思うんですよ。そして、『君の名は。』にはそれがあった。完璧にあったよ。「東京の眩しさ」を嫌味なく最大限に描くためのシチュエーションとして、「東京の高校生の身体に入ってしまう田舎の女の子」というのは100点だったと思う。俺は、あんなに東京を眩しく思わせる映像を本当に見たことがなかった。なんか、結果として、日本のアニメ映画で一番売れたんでしょ?すごいよねそれ。日本で一番売れたってことは、東京の人口ってせいぜい日本の人口の一割と聞いているので、それ以外の9割の人たちがすげえたくさん見たんだなって思って、そういう全国のワーナー・マイカル・シネマズで東京に憧れを抱く人たちがこれを見たんだなって考えたら俺はすげえ納得がいったんですよ。この映画は売れるべくして売れたんだな、って。田舎(地元)と東京(憧れの場所)を、全く平等に美しく描いてくれる映像。って寡聞にしてあんま知らねえんだから、そう考えたらこれはそりゃあ国民的だなと見ていて思った。

いや、でも本当、そんくらいですね。他にもあざといというか、311以降に隕石を落とす時点でそれはもうあざといと言ったって怒られやしないと思うんですが、そういうあざとさは他にもいっぱいいっぱいありましたけど、それが悪いとも思わないし。そういう時代性も伴って本当に面白い仕上がりだった。これがどれくらい新海誠という人の思想を素直に反映してるのか、捻くれて写象してるのかはわからいけどね。だって、あのラストの下りね、あれはセルフパロディだと思うんですよ。「俺の作品は会いたくて会えないラストだって知ってるだろ?知ってるだろ?引っ張るよ、引っ張るよ」って意思も感じるものね。そう考えると、この監督がどれくらいマジで作って、どれくらい「これくらいが俺には求められてるんでしょ?」って作ってるのか全然わかんないんだよね。俺はがっつり後者であって欲しいなと思うタイプで、これで売れたのを足がかりにどんどん勘違いしてまたもっとちゃんとキモいもん作ってくれよって思うんですよね。

今回のだって本当にそうで、巷の評判を見ると「いつも最後出会えない新海誠作品でついに最後出会った」とか言われてますけど、「ここまで、隕石持ち出して半タイムリープ持ち出して、人格入れ替わり持ち出して、ここまでやらないとお前は『もう一度出会う運命』を認められないのかよ、みんな何の伏線もなく自カプくっつけてるのにお前は」と考えると、本当に新海誠って気持ち悪い人だなとも思うんです。出会える運命、出会える必然を突き詰めた結果、死ぬほど美しいロマンチックな物語にたどり着き、全国の運命や必然を死ぬほど手放しに信じるみんなに支持されてなんかものすごく偉くなってしまった新海誠監督まじで面白いし、俺の中ではこの『君の名は。』が、三谷幸喜でいう『有頂天ホテル』くらいのあたりで、そうなると俺は新海誠監督なりの『ギャラクシー街道』を期待してしまうわけで、

そんな感じでもう向こう数十年、新海誠の新作を死んだ魚の目に楽しみにするのでしょう、俺は。今回のはめっち面白かった~~~!!でもそれはお前のごくごく一面が奇跡的プリズムのちからもあっていい感じに映っただけで、本来のお前は、もっともっとアレな、アレなはずだろうがよ~~~、見たいんだよ頼むよ、早く次を見せてくれ。できることならやらかしてくれ。あるいは、「形式」になってくれ。どう転んでも俺は、喋りたいことが増えてハッピーハッピー。以上です。

*1:やっぱり今読むと書き方などに「もっとこう書いときゃよかったなー」みたいな反省もないこたないので開き直って「今でも悪いと思ってないですけどね」と言わんばかりにリンクを貼る気は起きない

健常者は健常者にコミュニケーションコストを払ってたのか

なんか、これをツイッターで見かけたんですけど。この一つ前のツイートについては「まぁ、そうだよね」と思って。けど、二つ目のこのツイートについては全然そうは思わない。と思った話なんですけど。少なくとも俺は、健常者は健常者相手だと相手が何を望んでどう接して欲しいかを探る、そんなことを自然にやってるとは全く思わないって話なんですけど。

まぁなんでしたっけ、このー、文春に不倫やらなんやらをすっぱ抜かれて、その後なんやかんやあって離婚して、禊感覚でワイドナショーに出演して、自分の方だけテレビで発言の機会が与えられてる状態で「まー元妻もこういう風に考えていたんだと想いますけど」「元妻も、そこらへんのことはわかってたはずなんですけどねー」みたいなことを一方的にカメラの前で喋って放送してもらって、そのくせマスコミに対しては「元妻への取材はやめてください、彼女は何も語りたくないんです」みたいなことを言っていた挙句、元妻に提訴されてた人の言うことなので、この人の個別の発言にどうこう言いたいわけではないんですけど。

一般的によく見かける言い回しだなとは思うんですよね。「ただ話を聞いて、こちらの気持ちを汲み取って、それにふさわしい態度でいてください。他の人にふつうにそうしてるように、私にもそうしてください」みたいな言い回し、ある属性を持った、世間的にはマイノリティとされるような人が言ってるシーンってのは割に見かけるなぁと思うんですけど。

繰り返すに前半部分は全然気にならないんですよ。「人それぞれなんだから、それぞれに対応するしかないよね」これは真だと思う。そんなことがそんなことが出来たらいいのにな。その後に続く「他の人はしてもらえてるのに私達は私達の属性を持っているせいでなかなかそうしてもらえない」みたいなこの部分については僕は明確に「いや、そんなことねえだろ」と思うんですよね。で、これは言葉尻の問題じゃなくて、ここのところで認識が各々にズレているのであれば誰もが肩を組み合い笑い合うような日は絶対に来ないなと僕は思ったんだ。確信したんだ。ジョージア賭ける。

はてさて、健常者は、健常者のことをそんなに慮っているのだろうか。

僕はそうは思わない。というか、僕は慮ってはいない。

いまあなたの目の前にいる相手が何を望んでいて、どう接してほしいのかを探ってほしいんです。だって、健常者が相手だと、みんなそれを自然にやってるじゃないですか。

僕はそんなこと、あまねく健常者にやっているわけではありません。妻と、子供と、あとはいくばくかの大切な友人にはそうしたいと心がけて生きていますけど、それ以外の人々には全くそんなことしてません。みんな自然にそんなことできていたら今頃よっぽど世の中マシになってらぁな。

健常者と健常者の間においては、無関心もひとつの「配慮」です。わからないことは無理にわかろうとしない。そっとしておく。力になれないものはなれない。相手の意思とは関係なく、自分の意思で引こうと思ったら引く。それは誰にも咎められない、普通のことだ。当たり前な配慮だ。べつにこの考え方が正しい本来的な在り方だという話ではなく、現状そうじゃん、という話。

しかし、それじゃあダメだよね、というのが僕のなかでの「健常者と障害者」の話だと思っているのだけど、健常者相手にはそれくらいの無関心無責任でいいと思うんだけど、どうも障害者に対してはそうじゃダメだよねと誰しもがうっすらとでも考えていればこそだからこそ「障害者にどう接したらいいかわからないよ」という話になるのだと思うけれど、それに「健常者にふつうにやっているようにやれよ」と言うのはなかなか酷というか、元の木阿弥な感じがして微妙な気がする。ならば多くの人が取るリアクションはやはり「無関心」に帰着するのではないか。

健常者同士が「どう接してほしいか探り合っている」ように見えることもまぁあるのかなぁとは思うけど、実際はそんなことないと思うんだよね。いちいち相手の本当のところを探り合っていますか、みなさん?絶対そんなことないだろっていうのが僕が生きてる体感なんですけど、そんないちいち相手のことを思い考えるみたいなコミュニケーションコストなんてもの、いちいち抱えてられませんよ。これはきっと昔からずっとそう。本当に丁寧に誰かに対してコミュニケーションコストを払える相手だなんて、人生一人がいればせいぜい、得意なやつで十人前後。それ以外の相手と、それ以外じゃない十人前後とだって話している時に誰もが大事にするのは文脈であり共通コードであるはずだ。人は、なけなしのコミュニケーションコストを使って会う人会う人と一対一対応の文脈を築く非効率を避けるため、文脈や、常識や社交辞令やお約束や既得権益やを作る生き物なのだろう。

言い換えればそいつぁ同調圧力と呼ばれることもあっただろう、そう呼ばれるくらいにそれは現代において糞扱いされている。それ自体は良いことだ。良いことなんだけど、そんな「お約束」で成り立つ上っ面のコミュニケーションで共同体を維持するなんざご免だと考えるようになった人が多いのがここ最近の話で、それによってなんかわかんないけど、核家族化?とかするようになったし、いわゆる「孤独な」生活を選ぶ人々は日本に増えたんだろうな、と思う。これもまた別にいいことなんだけど、「時代は変わったなぁ」と思ったので併記しておいた。

つまり、人ってのは別に誰だって「相手のことを思って」という理屈でコミュニケーションしてるわけじゃないと思うんだよな。そんなことやってられないし、やってられないから今は人と人とが疎遠だし、なんでかつては疎遠じゃなかったというと、社交辞令とかナラワシとかの変な共通コードとか常識が多かったからに過ぎなかったんだろうな。それらのルールに従えば、仲間はずれにされず上辺だけでもみんな楽しそうにできる。その裏には「こういう偏見も共有しましょう」「こういう差別も共有しましょう」という糞ルールがあったのはご愛嬌なのだろう彼らにとっては。

そして時代は変わって、そんなご愛嬌な糞ルールも受け入れがたいし、そんなしちめんどくさい共通コードないしルールを守ってまで仲間に入れてもらいたくないやい!!と考えるようになったのが現代の希薄さなのだろうと思っている。そしてそういうこ「既存のルール糞喰らえ、誰ともわかりあいたくないやい」と並行して「お前らが簡単にやってるように、私達ともわかり合ってくれ」という要請が飛んでくる。

誰もわかりあってないんだって。

僕がこの一連の文章で言いたいのは、「だから無理だから諦めましょう」なんてことではないんですよ。ただ、こういうふうにちょっとうっすら目の遠い目で過去を眺めてみると、建前でなんとなくわかりあったフリをするような時代は終わって、そんな無理してまで分かり合おうとはしたくはないけど、分かり合わなくちゃ分かり合わなくちゃとも思わなくてはならない時代に今はあるんだなってことなんです。それって、人類史上未だかつてないくらい大きなチャレンジングな命題を掲げて隣人と向き合わなくちゃならない時代になってるんだなと思うわけです。

過去に「自然とわかりあえた」なんて関係はどれだけ世の中にあったのだろうか。結局みんなわかりあえたふりをするための常識を拵えて共有してただけじゃないのだろうか。あんな風な時代に戻りたくはないから各々自分を突っ張って荒れに荒れてるのが現代だし、あんな風な時代を「お前らわかりあってたじゃん」とも言われたくないし、なんかうまく言い切れなかったけど、まだまだ謎が解けたその暁には霧を晴らすと表現しても差し支えないようなモヤモヤが、なんっか残ってる気がすくんだよなぁ。

眠くなったからまぁいいや(眠くなったからまぁいいや)。以上です。