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孫にこう呼んで欲しい問題

あのー、このブログ、たまに妹が読んでるっぽいんですけど、お前言うなよ!めんどくさいからなんかあの話のブログ書いてたよってお母さんに言うなよ!

めちゃめちゃ斬新じゃないですか?ブログの冒頭で妹に対して名指しで「お前お母さんに言うなよ!」って言うところから始まる31歳会社員男性のブログめっちゃ新しくないですか?

あのー、夏に子供が生まれたんですけど、なんか、待望の初孫にはしゃぐおかんがね、よくわからんことを言い出してたんですよ。「孫ができたけど、ばあちゃんって言われるのは嫌なの」って何かずっと言ってまして、これ変な話なんであんま詳しく話すと話がややこしくなるんでさっと行くんですけど、嫁さんが生後まる一ヶ月実家で里帰り育児してるあいだ、僕は僕で怪我をやっちゃってて日常生活ままならなかったもんで遠方の実家の母親に来てもらって一緒に生活してたんですよ。で、その間、すげえ言うの。ばあちゃんとかばーばは嫌だって。じゃあ何がいいんだよ、って言ったら「あーちゃん」が良いって言うんですよ。「は?」って思って。「おばあちゃんとか、そんな年寄りみたいな呼ばれ方は嫌だから、かわいくないから」とか言うんですよ。「は?」って思って。

お前さ、息子が「おっさん」であることをやっと受け入れ始めたのに今更何言ってんだと、おばあちゃんかわいくないじゃねえだろ、お前、俺は俺のばあちゃん兼お前の母親めちゃめちゃかわいいわ、31になってもめちゃめちゃばあちゃんかわいいわ、いい息子に育ってるだろうがこの馬鹿。俺は初孫だったけど初ひ孫はほかの従兄弟に先駆けられちゃって「ちょっと間に合わなくて初ひ孫じゃなかったけどごめんね」って電話で言ったら「ひ孫は何人いても困らん」っていうよくわからんコメントしてたばあちゃんめちゃめちゃかわいいわ。それをお前、ばあちゃんはかわいくないとは何だって話でね。

なんか聞いたらね、「そういう呼び方も最近はある」みたいなこと言うのね。「そう呼んでる人結構いるよ」みたいなことを言うんですよ。まさかね、20年の時を経てね、実の母と立場逆転してね、かつて俺が言われてた「みんなって誰と誰と誰や、言うてみぃ!」をね、実の母親に逆に言うことになるとは思ってませんでしたよ。それでも頑なにね、「いや、でもあーちゃんっていうのはそんな変じゃないよ今時」みたいなことを言うの。いや、もういいよ、じゃあ好きにすれば、たぶん定着しないけどね、くらいでとりあえず落ち着けたんだけどね。

時を経て最近の話ですよね。母親は実家の方に帰っていって、嫁と息子は僕の家に帰ってきて、三人でなんやかや生きて最近なんですけど、もう忘れてましたよ「あーちゃん」問題なんて忘れてましたけど、なんか実家から荷物が届いてね。食べ物とか送ってもらってたんですけど、その中にちょっと早めのお年玉が入ってたんですよ。そのポチ袋見たら「あーちゃんより」って書いてんですよ。お前マジかと思って。結構マジで中長期的な目標としてあーちゃん名乗ろうとしてるやんけ思って。どうしたもんかなと思いつつ、まぁでも、いやー、そのうち諦めるか?今は好きにさせといたらいいのか?と思ってたんですけど、その一週間後くらいにね、いっつも実家の家族のLINEグループにスマホで撮った息子の写真をアップしてたんですけど、これももうちょっとうまいことやれへんかな思ってて。そういう家族同士で子供の写真をシェアする専用のアプリみたいなんを見つけましてね、それで今後このアプリで行くからって言って家族みんなにお触れを出してとりあえずアカウント登録してーってLINEで言うたんですけどね、

そしたら母親がですねアカウント名「(母親の名前)あーちゃん」で登録してるんですよ。怖い怖い怖い、ガチじゃんと思って。もうこの時点でほぼほぼ「私メリーさん」と同じノリになりつつあるからね、「私あーちゃん、あなたにお年玉をあげるの」「私あーちゃん、あなたの写真をチェックするの」みたいな感じになりつつあるからね、妖怪に片足突っ込みつつあるから。

一回「好きにすれば?」とは言った手前後ろめたい部分もあるんですけど、これ大丈夫か?と思いましてね、これずるずる放置するとね、その期間母親は「あーちゃんって呼ばせるよう頑張っていいと思ってやってる」わけだから「それどうなん?」って言うなら早い方ががっかりも少なくて済むのではと俺も思い始めて。ただ俺もエビデンスを大事にする男だから、まずその誰と誰と誰や。「あーちゃん」って呼び方はそんなに一般的なんか?と思って。ネット駆使して調べるわけですよ。そしたらなんかアンケートみたいなんありまして、呼び方?呼ばせ方?アンケートみたいなのでね、祖父母のことを「あーちゃん(ばーちゃん)、いーちゃん(じーちゃん)」って呼ばせる文化は無いことは無いみたい。3%とかだったけどね!!わかんないけどたぶん小生とかと同じくらいの割合だよね。自分のことを小生っていう人と、祖母のことをあーちゃんって呼ぶの大体同じくらいかな、AVのレビューとかに結構いるけどね一人称小生の人。あれなにかしらの七不思議の一つだと思うけど、AVのレビューには一人称小生いるよね。AVレビューしてる時に祖母の話が並行して出て来ることはないからわからないけど、最悪小生の人がイコールあーちゃん呼びの人の可能性まであるけどね。ないわ馬鹿。全国の祖母のことあーちゃん呼びのご家族に謝れ!!!犬!!!

犬「いやそれはお前が自分で謝れ!!!!!」

俺「ごめんて!」

いや調べましたよ、祖母のことを「あーちゃん」と呼ぶ文化がどう発生したかについて調べましたよ。なんかばーちゃんの発音が赤ちゃんうまくできなくて「あーちゃん」になっちゃったのがそのまま定着した、ってパターンが多いみたいです。

なんだこの、すげえ40へぇくらいのトリビア!!俺はこんな生ぬるい明日誰かに話したくなるちょっと面白い話を書きたくてブログをやってるわけじゃねえんだよ!!

母親~~~~~~~~!!!!!!!!!!

いつまでも俺の人生につきまといやがって!!!!!!これからも最後までよろしくね。

いや、そうなんですよ、正しい「あーちゃん」という呼び方はね、孫の側から自然発生的に定着するのが望ましいんですよ。「ばーちゃんだよー」って呼びかけて「あーちゃん」と返ってきて、それが定着するならまぁええか、っていう。祖母の側からそう仕向けるのは違うだろって話で。あいだを取るなら、もう孫に「あーちゃん」と呼ばせるように細工するしかないですよね。一番手っ取り早いのは舌なんかあるから「ば」が発音できるんですよ。舌なんか無けりゃ必然「ばーちゃん」が「あーちゃん」って発音になると思うんで。だからもう本当に満を持して「あーちゃん」と呼ばれたかったらね、舌なんか切っちゃえばいいんですよ。裁ちバサミで。めちゃめちゃ見たいですけどね、あーちゃんと呼ばせるために自分の孫の舌を裁ちバサミで狙う僕の母親。絶対めちゃめちゃ面白いと思うんですけど。それで無事に舌を切ったとしてもそりゃ孫だって「あーちゃん」とは言うと思いますよ、だって舌がなくて「ば」は発音できないんだから。そう呼ばざるをえないけど、その枕に「裁ちバサミの」がつくよね。「裁ちバサミのあーちゃん」って呼び方になると思うんですけど、呼び方がマイルドなだけでもうそれ実体としては完全にただの鬼ばばあだからね。ソウルジェムが濁った市原悦子になっちゃってるから。お前、妹、絶対言うなよ、鬼ばばあとか絶対言うなよめんどくせえから!ソウルジェムが濁った市原悦子はたぶん意味がわからないからセーフだと思うけど念のためソウルジェムが濁った市原悦子も言うなよ!!

いやだからもうやっぱ「あーちゃん」はもういいんじゃねえかなと思って。そのメリーちゃんコンボを見て、ちょっと早めに処理しようと思い直して、親父に電話して、妹に電話して、根回ししてね、そしたらすんなり「わかったよー」つって諦めてくれたみたいだから良かったんだけどね。そんなすんなり諦める人をこんなに3300文字かけてネタにする俺が親不孝だって話に落ち着くからいいんだけど。

どっちかというと控えめというか、「私はこうしたい」っていう母親じゃなかったから、親父のことにしても子供のことにしても「そうしたいんならそうさせてあげたいね」って感じの人だったから、びっくりはしたけどね。それだけ初孫にはしゃいでるんだと思って、「そんな母親の望みならあーちゃんと呼ばせたいなー」とは露とも思わず「そのはしゃいでる時点で役得だろ、はしゃげた時点で叶わなくとも本望だろ」と思って撤収させましたけどね。こんなはしゃぐんなら、それだけで十分良かったなとは少しは思うけどね。

まぁまだワンチャンあるから、この理屈でいうと、息子が舌足らずで自分から「あーちゃん」って呼び出したら一度は断たれた僕の母親の野望はリボーンしますからね、それ本人に言うと裁ちバサミ持って我が家に押しかけてくるから言いませんけどもね。以上です。

愛は醜い

たとえば体罰とかハラスメントとか果てはストーカーとか痴情のもつれとか、たびたび加害者が「愛してるからやったんだ」「愛情がない相手にはそんなことしない」みたいなことを言ってるのを見かける。
それを見てみんな「ふざけるな」「そんな言い訳が通じるわけないだろ」と憤る。ここまではわかる。
「お前のそれは愛ではない」「お前の愛は正しくない」こうなってくると俺はちょっとわからなくなる。
別に愛だろうがなんだろうが知ったこっちゃないがダメなもんはダメ、で良くない?
それが本当の愛だったとしても加害を正当化する理由にはなりません。それじゃあダメなの?
なぜ人は、他人の愛が本当の愛か、正しい愛かを判断しようとするのだろう。
それは結局みんな「本来なら許されない何かが愛を理由に許されることがある」と信じてるからなのではないだろうか。
愛を理由に自分の行動を許される余地は残しておきたいと心のどこかで思っているからではないか。
愛を理由に許される仕組み自体が解体されては自分も困ってしまうから「愛を言い訳にするな」ではなく「お前のそれは愛ではない」と言うのではないか。
俺はもう加害者の動機が愛だと言うなら、それは愛でいいんじゃないかと思う。
エゴを言い換えた言葉が愛だ。すべての人が愛と呼ぶものは平等に例外なくすべてエゴだ。それでいいじゃないか。
自分の愛は本当だ、お前の愛は本当じゃない、愛を理由にする加害者はきっとあなたと同じようにそう言うだろう。
「本当の愛は尊い
この「思想」というか「みんながそう信じている社会」という仕組みに、みんな助けられてはいるのだろう。
愛を理由に自分の勘違いや思い込みや先走りや過剰な感情が許されることがあったり、逆に相手を許すことができたり。
きっとその機能の恩恵を知っているからこそ、みんな愛を信じるのだ。
が、愛を信じる社会だからこそ愛を理由に暴走する人間が現れる。
「それは愛じゃない」と咎めることができるのはいつだって誰かが傷つけられたその後だ。俺にはそれが堪らない。
誰かを傷つける仕組みを内包したまま、それでもみんな愛を信じて生きていくしかないのだろうか。
もう愛は、そもそもとして醜いものだとした方がいいんじゃないか。
愛は醜い。だから誰かを愛したいなら愛の醜さを補って余りあるほどの何かを自分が差し出さなくてはならない。
本来的にはそういうことなんじゃないか。
愛の醜さと向き合うのが怖いから愛は美しいと頑なに信じ込むことが許される限り、どれだけ怒っても嘆いても何も変わらないんじゃないかと思ってしまう。

産む前に子供の障害について調べられる医療を使った感想文

今、家には4ヶ月の息子がいて、彼は少なくとも我々両親にとってはとてもコンテンツ力があるので彼について話し始めると長くなるのですが、今回はそんな彼が産まれるよりも以前の話です。

結婚してからオリンピックが何回かあったなというタイミングでの懐妊で、その時の私達は結婚した当時より思ったより歳を取っていた。気づけば、カルビよりサガリが美味しい身体になっていた。だから、なんかお腹に命がいるらしいですよとなった時、掲題の通り、そのお腹のなかの命について調べてみるという選択肢を考えることはとても自然なことだった。センター試験を受けておいて自己採点をしないのは考えられないように、私達にとってそれは自然なことだった。自己採点をしないやつはダメだ、という話ではなく、少なくとも私達にとってそれは自然なことだった。

不安は漠然的であるほどタチが悪い。だから、不安の形を立体化させるためにもそれは自然なことだった。我々にとっては必要なことだった。その結果がどうだったらどうする?なんて話はしないまま、調べてみること考えなくちゃね、って調子だった。どうする?なんて話はまだ二人で話し合う段ではなくって、互いには考えつつも、それをお互いにまだ口にすることはなく、調べてみること考えなくちゃね、という雰囲気に二人でしていた。

調べる、にあたってどういう選択肢があるのか、調査するのはその一切を僕の役割とすることを僕ら夫婦は決めた。すでに腹に命を抱えた彼女が、検討に検討を重ねるための多くの情報と向き合うのはそれだけで大変な負荷になると考えたためだ。僕が身軽な身体でリサーチします。どのような方法で、どの病院で、どんな先生のどんな思想に触れながら、彼女の腹の中の命と向き合うか。結果はわからない。が、過程は選べる。我々夫婦ともう一個の命の物語がどうなるのかはどうにもてんで分からないが、その物語に登場させて後悔がないのは、どんな方法でどんな先生なのか。それは僕が考えることにした。

一口に「産まれる前に障害の有無を調べる方法」と言っても色々あるんだなーということを調べていくなかでたくさん学んだのだが、それらをここで偉そうに書くには結構前の話なので結構もう忘れた。シンプルに忘れたわ。なので、なんか参考になるサイト知ってたら教えて。この文章の最後でリンク貼るわ。俺も当時めちゃくちゃ調べたんだけどだいたいもう忘れたから。

それで、なんやかんや考えて僕が出した結論は、大阪のとある胎児ドッグをやってるお医者さんに見てもらおう、だった。

正直、はした金とわずかの血液さえ出しゃお手軽に数字だけ確率だけ紙切れ一枚で教えてくれるサービスがこんなにも世の中に溢れてるとは、知らなかった。医療はイオンモールに勝るとも劣らないスピードで進化している。でもそんなのちょっと怖いなと思った。物語がないのは怖いよ。ただ、数字だけがポンと置かれてしまっては、そんじょそこらの凡人はただその数字を信じて当てにしてしまうもの。だから僕はそれが怖いと思って、もっと穏やかな結果だけじゃない過程を伴う方法がないかとあくせくしていたら、胎児ドッグというものの存在を知ったのだった。胎児ドッグとは、と、今タイピングしたものの胎児ドッグについてもここで嘘のない説明をすらすら書くにはちょっと色々忘れてきてるので各自ググってください。読者に課す宿題多いなこの文章!

まぁなんかざっくり言うと最新のエコーで赤ちゃんの様子を我々は見物しつつ、先生はなんか首の骨の厚み?いや全然自信ないわ、なんかとりあえずエコーから目視で確認できて障害との相関があるなにかしらの数値を測定してくれて、そこから障害を持って生まれてくる確率を算出してくれる、みたいなやつです。

で、また胎児ドッグをやっている病院というのもいくつか選択肢があったのでまたその中で吟味し、ネットで実際に利用した人の声を探し、一番我々の物語に優しく寄り添ってくれそうな病院を最終的には勘で選びました。

それで、この病院でこんなことをやってくれるのでまずはそれを受けてみよう、という話を彼女にして僕たち二人はその病院に行ったのでした。

完全予約制でゆったりたっぷり1時間だかの時間を確保してもらえていたのだが、実際にエコーが始まるのは30分ほど経過したあたりからで、最初の30分は私達夫婦がなぜこの病院に来ることにしたのか、どんな不安を抱えているかのヒアリングから始まって私達が漠然と不安視している「障害」とは何なのかを懇切丁寧に先生なりに説明してくれた。胎児ドッグは、生まれてくる子供をより良い状態で受け入れられるために事前に赤ちゃんのことを知ることなのだ、とも。なるほど、事前に調べていたので知っていたが(もっと言えば説明してくれた内容もだいたい知ってた)この病院のこの先生は明らかに、命の選別により失われる命を一つでも減らすために、こんなところでこんな病院をやっているのだな、と彼の語り口を聞いて改めて確信した。そして、実のところ、私が病院を選ぶうえでの一番の基準はそこのところだった。

自分一人で調べ調べしていくのと並行して月日は流れ、彼女のお腹の命の週数は過ぎていくわけだが、途中で僕はさっさと「こんなの無理に決まってるじゃん」と腹に据えていたからだ。命の選別なんて判断はしない方がいいに決まってる。正直、この時はまだ妊娠10週を過ぎた前後、俺にはまだまるっきりそこに新しい命のある実感がなかった。しかし命を我が身に宿した彼女からしたら全然そんなことない。加えて、僕はもともと子供がいる人生だろうがいない人生だろうがどっちだって構いやしないという考えでいたが、彼女は子供を強く望む人だった。日々、待ち望んだ新たな命を実感しながら生きる彼女と、実感なんざまるでない僕。ここで我々が命の選別なんて道を選んだ日には、僕たち二人の今後の日々が立ち行かないのではないかと僕は思っていたのだ。生まれた命がなんであれ、その命のせいで二人でする苦労ならいくらでも二人でやっていけるような気がする。しかし、もう一方の道を選んだ時に現状大した実感がない自分が彼女の深い苦しみ悲しみ罪悪感に寄り添えるだろうかそれはとても大変でうまくやれるイメージがなかなかに湧きにくかった。そのような経緯考えがあったので、僕はどんな結果が出ようと親になることを引き受ける腹積もりでいたし、しかし最終的に判断を下すべきは実際に出産をする彼女だとも思っていたので、彼女が産むことに不安を感じるような結果が出た時には、その不安を解消できるは言い過ぎにしても少しでも不安に寄り添えるような物語を我々は選ばなくてはならないという思いを強く持っていたのだ。

これは胎児ドッグを終えた後も実際に我が手で子を抱くその日まで繰り返しまだ見ぬ我が子に願っていたことだ。生まれてさえくれれば、あとは俺も彼女も頑張ってなんとか三人でやっていく。ただ、その前にいなくなられてしまっては彼女と俺の悲しみのギャップが大きすぎて二人でやっていけるか俺にはめっぽう自信がない。なのでお前には無事に生まれてきてもらわんとこれからもずっと彼女と一緒にいたい俺が困る。自分がそんな理屈で我が子の誕生を待っていたものなので、命の選別が親のエゴなら、子供を産み落とすのだってどのみち親のエゴなんだよなと僕は強く強く思っている。

ところで実際に病院に行った話がいつの間にかどっか行きましたが結論から言うとなんか大丈夫そうですよ、という結論でした。それは本当に最終的な結論で途中あれ?ちょっと一安心とはいかない数字ですねみたいなターンもあったんですが、最終的には結論、なんか大丈夫そうですよというところに落ち着きました。ただわざわざこの話を書こうと思ったのは、大丈夫でしたー、よかったですー、って言いたくて書くわけでは全然ないのであんまそこはどうでも良かったりする。

結果がどうあれ産む方向で考えてました、なんて言葉には何の意味もないし、何事もなく健康に生まれてきた我が子を嬉しく思わないのも変だし、そうじゃない人に後ろめたく思う必要もない。胎児ドッグを受けたことをなかったことにはできないしする必要もないし、受けたことを我が子に申し訳なく思う必要もない。そこには十人十色に色々な思いがあるし、あった方がいいし、どんな判断になるにせよそこにはなるだけ豊かな物語があった方が自分の選択への後悔が少なく済む、あるいは後悔と向き合ううえでの糧になるだろうということについては僕は強く信じている。胎児ドッグという物語の醸成に一役買ってくれる選択肢を選ぶことができたのも我々が住んでる土地に恵まれていたからに過ぎないし、無機質な紙切れ一枚で判断を求められ苛まれる人が世の中にたくさんいるだろうことも考える。自身の環境への感謝があればこそ、当時の私たちと同じ境遇にある誰かの物語の一助になれればと思いつつなんて綺麗事はまあ言えなくもないが、要はこれだって僕が僕のために書いてるだけなんだけどさ。自分のためで何が悪いなんてまるっきり100%の力ではなかなか誰だって臆面もなくは言えないもんだからさ、だから出生前診断なり何なりを受けることも、そこからどんな選択をするにせよ、選択した当人を頭から否定なんてできないんだと思う、それが当人のエゴであったとしてもさ。

妊娠初期のある時、妻が今まで感じたことのない種類のお腹の痛みに苦しみ目を覚まし、腹の命を気にかけ不安に苛まれた夜があった。僕は「大丈夫、大丈夫」と声をかけながら背中をさすってやった。嫌いな言葉だった。大丈夫かどうか本当のところなんてわからない。不安がったところでいくら気にかけたところで結果は変わらないなら不安がるのは時間の無駄だ。なるようにしかならない。大丈夫かはわからないけど、気丈に結果を待つしかないんだよ。本当はそういう性分なんだが、その時ばかりは大丈夫大丈夫と声をかけ続けた。言いながら、これからは信条に反する大丈夫を言う機会が増えるんだろうなと思った。それが親になることだ、とは思わないが、どうも俺の今後はそうなりそうだ、と。