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ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

恵方巻きなどしょせんは細長い握り飯それに節分を託すなど笑止千万開いた口が塞がらない豆を売ることを忘れた日本人米に頼る日本人嗚呼嘆かわしや米神話を信奉するより仕方ない日本人変わるのだまず豆を豆から取り戻せ節分は豆を撒け黙ってないで豆を撒け巻きずし食うな豆を撒け

胸に手をあてて考えてみろまずお前たちは本当に豆を売ろうと誓ったか豆を売ってやろうと脳は汗をかいたかかいたのか?かいてないだろう?お前らは安易に豆を売って米に手を出した。いや違うか豆は売ってないのか豆を売らずに米に手を出したんだ。豆を捨てたお前たちの米は果たして我々国民に届いているのか俺はそれをとても疑問に思っているんだ恵方巻きなどしょせんは細長い握り飯どうしてそれを特定の何気ない日取りに我々が手に取るものだとお前たちはどうして確信したか俺にはわからないんだ豆を撒かずに米を食うのか米なら食うと思ったお前らの卑しさに俺はほとほと呆れ返っているんだ恵方を向いて黙って巻き寿司を食えというストーリー、そこには鬼が不在だ鬼が不在なんだ前も悪もないそんな抽象的な物語を我々が許容すると思った、お前はそうやって俺たちを見下したんだ俺はそこのところが許さない。鬼が出てこない物語、それで俺たちが踊ると思ったお前らの性根が俺はどうしても許せないんだ。鬼はいる。豆をぶつけられないならぶつけられないでいいが鬼はどうしたって必要不可欠だ。お前たちはまず二月から鬼を奪った。恵方巻きを食べてる最中に喋ると鬼が来るよ。そう一言付け足すだけで鬼は二月に留まることができたんだお前たちは鬼の居場所を奪った。鬼ありきの人間を蔑ろにしたんだ。コラボレーションしにくいんだ恵方巻きというイベントは買い切りパック感があるんだ。一息に食えという指示がおれには二月三日という日を無色透明にしているようにしか思えない。だった黙った食えというじゃないか。黙って一息に食えというじゃないか。そうすればもう、最初に食うか最後に食うかしかないではないか。最後に米なんて食えるか馬鹿馬鹿しい、必然一番最初に食うしかないが、三角食べとかできないのだ、ただ恵方巻きを食べるしかない。食べきってからオードブルを食べる子どもたち、そこにいる子どもたちの顔は食前酒感覚で恵方巻きを食べたような顔をしているのだ。足かせだ。本当ならもっと唐揚げを勢いよく食べれるところ、節分ということで恵方巻きを食わざるをえず、唐揚げで満たしたかった胃の空きスペースを恵方巻きに奪われて、そんな悲しい子供の笑顔を俺は見たくなんかなかった。一体誰が喜ぶというのだ。何気ない節分を、こんな風にしてしまったのは誰だ。ただいそいそと豆を食べていたかっただけなのに、どうしてこんな、海苔巻きて。ジャンクフードじゃん。サッと食ってパッと仕事に戻れるやつじゃん。どうしてそんなものを年中行事にしようとしたの?そのうえインフルエンザが流行りがちなこの時分になんで手で食うものを流行らせようとしてるの?流行られてたまるか俺は許さないぞ絶対に許さない豆を取り戻せ豆を撒いて拾ったあの頃を思い出せ思い出すんだ恵方巻きを食ってる今よりずっと楽しかっただろうがよ。前を向けよ。豆が転がってるだろ。俺たちはそっちに行くんだよ。恵方巻きってなんだよ恵方ってなんだよおかしいだろうがよ絶対に。そんな、めざましテレビの視聴者にレンジを絞ったような年中行事を俺は絶対に認めない。たとえ、恵方とeffortがかかっていたとしてもだ。

男女の保育士が同じように働くということ

 タイトルの本題に入るまでがかなり長いけど、どうせ読むなら全部読んでもらえればな、と思う。あと本題に入った後も長い。ぜんぶでだいたい7,000字。時間がある時にあったかくして読んでくださいね。

 

 母親にLINEで「俺が通ってた幼稚園って男の先生おった?」と尋ねたところ「忘れた。(三つ下の)妹と(四つ下の)弟の時はいた」という返事が来た。最初、なんで22年前のことは覚えていて25年前のことは覚えてないの?容量がいっぱいになったら古いファイルから自動で削除して新しいファイルを上書きしていくみたいな、記憶ってそういうシステムなの?なにそれ怖っ!と思ったが、たぶん単純に「あ、男の先生だ」と思った記憶があるから「妹の時はいた」とはっきり言えるのだ。つまりそのような記憶がないから「忘れた」という曖昧な表現になるのであり、恐らく俺の通った幼稚園には女の先生しかいなかったと考えるのが妥当だろう。

 それから俺が小学校に入学して最初の担任は新卒の女性の先生だった。うちの親は「女の先生でそのうえ新卒とはちょっと頼りないね」と普通の調子で言っていた。そしたら案の定というか何というか夏を待たずに今風に言えば思いっきり学級崩壊していた。もし仮に、我が家だけでなくどこの家庭でも「担任が女で新卒とか本当に大丈夫なのかねえ、心配だねえ、女なんかに務まるのかねえ」と当たり前に子供の前で吹聴していたのだとしたら、あんだけ児童一同が心の底から何の疑問も持たず若い女の先生を全力でナメにかかっていたのも無理からぬことだろうと今になって考えると思う。この件に関してでいうと僕はその当時は気が弱くて、先生に何を言われても聞かずにやりたい放題の男子たちにいじめられていたもんでどっちかというと割を食っていた方だがさしたる疑問もなく「男の頼りがいのある先生が担任だったらいじめられずに済むのになぁ、ちゃんと怒ってくれればなぁ、でも女だから無理かぁ」とか考えていたことは覚えている。

 しかしここで残念なお知らせなのだが、自分という人間は嫌なことはさっさと忘れる性質なのだろうかその学級崩壊がどういう顛末を迎えたのかについて、まるで覚えてない。学級崩壊は放置され続け新卒の女の先生は疲弊し続けたのか。それが限界に達するか、或いは周りの先生の介入もあってか担任交替となり落ち着きを取り戻したのか。そこんとこ自分でもびっくりするくらい全く覚えていない。ほとんどぷっつりと途切れていると言ってしまっても良い僕の記憶の続きが始まるのは小学三年生に上がるタイミング、親が家を建てて転校して以降からだ(ちなみにこの時、当然妹も僕が通っていたのとは別の幼稚園に移っているはずなので、ニュータウンに最近できた新しい幼稚園は男の先生の採用を始めていたのだろう、と考えると辻褄は合う)。だからその女の先生がその後どうなったのか、僕は全く知らない。住む地域が変わって人間関係をリセットすることができた僕は「気が弱い」をやっていても得することはなに一つないと悟り、大きくキャラチェンジすることとなる。それ以降から現在までは一応記憶が途切れている期間もなく生きてゆくことができている。閑話休題

 今になって思えば、というか今の感覚で言えば、幼稚園の頃は子供の面倒を見るのは軒並みすべて女で、それが年齢でいうと一つしか変わらない小学生になった途端に「女の先生では頼りない」とみんなが当たり前に言うのはどうしたっておかしな話だ。しかし当時はそれが当然のように罷り通っていた。ここで繊細で賢くて優しい子供は「なんで?」とか「変だなぁ」とか考えることができたのかもしれないが、残念ながら僕はそんな聡明さとは無縁の子供だったので「大人がそう言ってるのだからきっとそういうもんなんだ」としか思わなかった。何より女らしくなよなよしてるとまたいつ誰にナメられていじめの的にされるかわかったもんじゃないので、小さい身体で運動もろくにできないなりに堂々と男らしくしていようと心がけた(具体的には口がめちゃ回るようになった)。

 そうして僕はバカ殿が裸の女を引き連れてはしゃいだり、田嶋陽子をみんなで全力で笑い者にしたり、紅白の裏でダウンタウンが野球拳を生でやったり、野島伸司ドラマの登場人物がレイプされるの打率でいうとどんだけやねんなテレビを普通に家族と見ながら年月を過ごし、一方で小学校高学年だったか中学生だったかの頃には出席番号が男女混合となり、しかし実態としては男は男らしく女は女らしくが当たり前で、月日は流れ予備校に行く頃の比較的最近になってもなお、世界史を担当していた男の先生はモンゴル帝国の説明をするにあたり「モンゴル帝国は男の本能と同じです。欲望の赴くままに膨張して、やがて破裂したら一気に萎みます」と言って男子は大爆笑、女子はドン引きしていた。

 そこから話は飛んで現在、僕には結婚して約五年、交際を始めてからで数えると十年以上の付き合いになる妻がいる。間違えると今でさえ「新婚ですか」と入った店のスタッフに言われるほどに仲睦まじい我々夫婦であるが、それも今でこその話。付き合い始めの頃は妻には大変な迷惑をかけた。端的に言えば長年かけて培い刷り込まれてきた僕の男女観は、僕と彼女がただ対話を重ね意見を摺合せふたりが納得のいく結論を出すただそれだけの作業の際に大変な苦労と面倒を伴わせることとなった。親世代の男女観は頭が固いと馬鹿にしてたし、女は男の三歩後ろを歩けだなんて思ってるわけでもなかったはずなのに、付き合いを密にすればするほど相手のことを信頼しているからこそ自分の本音を伝えれば伝えるほど自分の中の「男のプライド」とか「女なんだから」とか「男女の交際はこういうもんだ」とか考えてる部分がどんどん浮き彫りになってきて、それらは僕がただ彼女を喜ばせたくて彼女が喜ぶようなやり方で態度で言葉で愛情を示したい時にずいぶんな足枷となった。だから特に交際して最初の数年は、そこの意識の持ち方を変えるトレーニング期間という側面があったと言って差し支えない。それは彼女にとっても自分にとっても(って言ったらお前は加害する側、抑圧する側だろと怒られるんだろうが)辛く険しい工程だった。だもんでそれに辛抱しながら付き合ってくれた妻には一生頭が上がらない。

 お陰様でもちろん今も自分の考えが本当に間違ってないか(というか、どう間違っているか、どういう風に考えを組み立て直せばマシになるか)見つめ直さなくてならないことはしょっちゅう毎日のことではあるが、昔よりかはいくらかマシなものの考えができるようになったと思っているたぶん恐らく言い過ぎかもしれないけれどもいや少なくともバカリズムや小籔よりはいくらかマシだとは思う(もしそこ本当に僅差ならまだ全然足りてないからな)。今後も引き続き精進を重ね、ゆくゆくは目指せオリエンタルラジオ中田敦彦。全然関係ないけど中田敦彦、育児に関するインタビューを受けた後、インタビューをまとてくれるライターと編集に「絶対に調子乗ってると思われて炎上するんで『パパとしてもパーフェクトヒューマン』みたいな見出しは絶対に絶対に絶対にやめて下さい」って15回くらい念押ししてそう。

 さて、ここからがやっとこさ本題。今、話題の男性保育士が少ない、という話である。

 この話題について色々な人の意見を読んで、自分でも色々考えて、怒ったり落ち込んだりしながら考えるなかで落ち着いた頃に思ったのは「俺の通った幼稚園が、普通に男の先生がいて、普通に女の先生がいて、それが当たり前だったら少しは違ったのだろうか」ということだった。

 子供にとって保育園とか幼稚園とかいう場所は、社会の最小単位である家族の枠を飛び出して、初めて目の当たりにする多くの他者が存在する社会であり、それはこれから70年だか80年だか続いていく人生という広大な世界の入り口であるとも言えるはずだ。そこで、子供たちの面倒を見てくれるのは大半が大人の女性であるという体験をするのか、男も女も関係なく大人が子供たちの面倒を見てくれるという体験をするのか、この違いって子供たちのその後の人生に大きな影響を与えるのではないだろうか。少なくとも俺は、子供の世話をするのは女、しかし小学生にものを教えるのは若い女では頼りない、という世界よりももっと男も女も別け隔てない世界を体験したかったな、と思った。

 この男性保育士の話題の中心に「男性保育士が男児女児の着替えや排泄の世話をする是非」というものがあった。まぁ理屈で言えば、是非も何もそんなの男性保育士は子供の世話をするために仕事としてやっているだけなのだから是非を問うまでもない。それどころか、着替えや排泄の世話を許されない保育士などハサミを持つことが許されない美容師のようなものだ。反対する人は「ただ着替えや排泄の世話はしないでくれと言っているだけで男性保育士を現場から排除しろとは言っていない」と言うが、何年働こうがどれだけ頑張ろうがシャンプーをしたり床に落ちた髪を掃除したりするだけで決してハサミを握ることが許されないという条件で一体誰が美容師になりたいと思うだろうか。また、そんな今後戦力になる見込みがない人材を一体誰が雇いたいだろうか。保育士という職業において着替え・排泄の世話がいかに重要であるかについては熊谷・千葉市市長のfacebook投稿が分かりやすかったので興味がある方は是非。全然関係ないけど熊谷市長のアイコン見るといっつもエヴァ初号機を思い出す。なんか前方に迫ってくる感じ。

 しかし、そうは言ったところでどうしたって理屈はあくまで理屈にすぎない。実際に保育士によるそういう事件が過去になかったわけではない。男性性に嫌な思いをさせられた・させられ続けた・させられ続けている人からすれば、男性に自分の子供の肌を見られたり性器を触らせたりなんて絶対に嫌だという嫌悪、もし間違いが起こってしまったらどうしようという不安、そういうものを抱えるのももっともだ。それを「理屈で考えたらあなたのその嫌悪感や不安や不信は持つべきものではありませんよ、男性保育士が(あなたの)子供の着替えや排泄の世話をすることを我慢して受け入れなさい」と無理に迫る必要が果たして本当にあるのだろうか、本人の体験や経験に起因する不信であるのだから、それはそれで尊重して配慮するのではなぜいけないのか。本人たちに悪気はなく、ただ心配なだけなのだ。どうしてそれを許容することができないのだ。それを許容しないのは抑圧なのではないか。

 そういう意見も多く見かけた。それで僕も、確かにそれはそうなのかもしれない、ともなんだか思えてきた。無理強いをするというのは何であれ、よろしくない。他にうまい手立てを考えれば彼らの男性保育士への不信は尊重しつつ、不信を持たない人たちで男性保育士を増やしていくこともできるんじゃないだろうか、と。

 例えば、男性保育士が着替えと排泄の世話をするのは男児のみとして女児については女性保育士が担当するというルールの保育園を作るとか*1。また、そういう対応をする保育園が増えた結果、男性保育士の数が十分に増えれば、それとは別に女性保育士のみの保育園を作りどうしても不安な保護者はそちらを選べるようにするとか。いくらでもやりようがあるはずだ。

 しかし、ここで僕のなかで再び頭をもたげるのが「保育園というのは子供が初めて目の当たりにする世界の入り口なのだ」という考えである。どのような形で落ち着けるにしろ、男性保育士への不信や偏見を保育の現場において尊重するというのは、やはり何らかの影響を子供の側に残してしまうのではないだろうか。

 ツイッターで見かけた意見のなかで「女医しかいない産婦人科を選択するのは悪いことではない」「介護の現場では基本的に同性のスタッフが担当するのが基本、本人が男女どちらを希望するかの意思は尊重されるのが当たり前(これはごめん、曖昧な記憶なので詳細間違えてる可能性めっちゃある)」それを踏まえれば男性保育士を拒絶するのも真っ当な尊重されるべき感情だというものがあった。

 これを保育の現場に当てはめて考えると、もちろん子供本人の意思であればそれは尊重されてしかるべきだと思う。というか現状でも例えばある女児が男性保育士に着替えさせられるのを嫌がるのであれば、保育士の側だって嫌がられるのはかったるいし別の女性保育士が担当するくらいの配慮はしていそうなもんだ。単純になんとかちゃんはなんとか先生じゃないと泣きやまないんだもんね、とかそういうのと同じレベルの話で自然に。あんま知らんけど。そして、現状そのような配慮が十分にされていないならそれは改善すべきことだと思う。嫌だということが言えない子供もいるのではないかとか考えるべき個別の問題はもちろん山積みではあるのだろうが、子供たちの意思や希望を尊重した個別の対応ができるような努力はそういう風に今もそしてこれからも為されていくはずだ。

 しかし、それが子供の意思ではなく、子供はそんなこと全然気にしていないのに親の不信や不安を根拠に親の判断で男性保育士を遠ざけるというのは全然違う話なのではないか。

 たとえば産婦人科の女医の話で言えば、それまでの人生のなかで男性に大して不信を持たざるをえない経験があった女性たちが自身の不安を解消するために女医に見てもらえる産婦人科を選択して、安心して医療行為を受けることができる。待合室で「やっぱり女医さんだと安心ですね」なんて談笑できる。それは全然いい。個人の自由だ。一方、保育園の場合だとそこにいるのは保護者だけではない。これから世界がどういうところなのか、自分は世界をどのように解釈しその世界でどのように生きていくかを今から考えようとする子供たちがそこにはいるのだ。そんな子供たちの面倒を見る保育士はなぜか女性しかいなくって、お迎えにきた保護者たちは「やっぱり女性保育士さんだと安心ですね」と笑い合っている。それを見た子供は何を思い何を学ぶのだろうか。

 男も女も分け隔てなく子供の面倒を見てくれる保育園で育った子供、男の保育士も一緒に遊んではくれるけど着替えや排泄の世話は女性だけがしてくれる保育園で育った子供、女性しかいない保育園で育った子供、それぞれその後の子供たちの人生観に何らかの影響を残していくのだろうということを考える。考えれば考えるほど、たとえ親や保護者にとっては実際の経験に基づく切実な心配や不安であったのだとしても、保育の現場において大人の偏見や不信に配慮することは、イコール次の世代にそれらの差別感情を引き継がせるという行為にほかならないのではないだろうか。もし、そうだとすると、僕はそれを明確に望まない。僕がそうして前の世代から受け取ったものは今も厄介事として僕を苦しめ続けているからだ。

 もちろんこれらすべてを踏まえたうえで、そういう偏見を子供に与えるべきだ、と言い切る人もいるだろう。普通に社会を生きているだけで油断すると目に飛び込んでくる男性向けアダルトコンテンツ、性犯罪の報道に対するネット民の反応、数えれば枚挙に暇はないが社会の現状を踏まえて「男性は信用するに値しない」という思想を選択する人がいるのは仕方のないことで、自分の子供にもそのような思想を与えようとするのも親の自由なのかもしれない。というか、親子っていつの時代もそういう風に思想なり呪いなりを親から子へ伝播して、そうやって今までずっとやってきたんだもんね。

 しかしだからって、社会の側が次世代に呪いを残すことを是としていいのだろうか。

 いいわけないんじゃないだろうか。

 なんかそんなようなことを考えたのだ。

 自分もこれでいて、機会があれば親になることに吝かではない人間ではあるので、男性保育士への不信とか不安っていうのは、もちろん全然あるのだ。すげえある。そういうの測れる装置があったらたぶんみんなびっくりするよ、「ズイショさんなんか他人事みたいに喋ってたけど、不安とか超あるじゃん」ってなるから絶対。それでも建前として、世の中の流れとして、そういうのも我慢して受け入れるべきなんじゃないだろうかくらいに今までは考えていた。

 けど、今回の一連の話題を通して、明確に、むしろ保育士の男女比が均等で業務内容にも差がない保育園を選べるなら選びたいなとすら考えるようになった(もちろんこれは実際に考えなくちゃならなくなった時に選べんのかも含めて妻と要相談)。それはただ手放しに男性性を信用しようということではない。自分の不安と向き合いながら、戦いながら、本当に間違いが起こらないだろうかと疑りながら、保育士さんとも関係性を作り何か異変があればすぐに気付けるようにして、男性の保育士さんを心の底から信用できる日なんかもしかしたら来ないのかもしれない。

 それでも、男性保育士さえいなければ感じる必要がないであろう気苦労やリスクを抱えることになったとしても、俺は自分の子供に「この世界では男だろうと女だろうとそれは大した問題じゃないんだよ、悪い人もいるから気をつけなくちゃならないのはもちろんなんだけど、気を良く話せるやつらもたくさんいて、それはもちろん男も女も関係なく満遍なくいて、分かり合うなんてことは難しいかもしれないけれど、この世界はこれでけっこう悪くないんだよ」と言ってやりたい。そういう世界を次の世代に見せてやりたい。それが、今になって思えば、かつて俺が言って欲しかった言葉で、俺が嘘でもいいから見せて欲しかった世界だから。つまりこれはこれで、俺が次の世代に残そうとする、一方的で、独り善がりで、ごくごく個人的な、立派な呪いである。以上です

*1:ただ、男性保育士への不信を払拭しないままこの方法をとっても、男性保育士はいつかどこかの馬鹿男性保育士が男児に虐待を働き「やっぱり男性は保育の現場から締め出せ」の大合唱に晒される日に怯えることになるだけで全く何も解決してないような気もするが今回はそこが本題じゃないのでもういいや

『ど根性ガエルの娘』15話、感想文②

はい、じゃあ前回エントリにもたくさんコメント頂きまして、そのあと自分でも順繰り順繰りさんざ考えまして、自分でも何に怒ってるんかよくわからんかったやつが何だったのかやっとこさだいたいわかったのでそれを書きます。

 

さて、人間には他人の気持ちがわかりません。

そのうえ、自分と他人は、育ってきた環境が違うから「自分の中ではこうなんだからこいつもきっとそうだろう」という憶測もまるで当てになりません。

生理痛で苦しむ女性に「そんなの大したことないだろ、俺はお腹痛くても動けるぞ」なんて僕は言えません。

親とうまくいってない人に「親を敬え、俺も親とは喧嘩もしたけど今は仲良しだ」なんて僕は言えません。

ならばどうするか。

相手の言うことを真に受けて「そうなんだ」と思うしかありません。相手の自己申告を自分のなかで勝手に忖度するんじゃなくて、相手の言ったことをそのまま「そうなんだ」と尊重するのが大事なのかなと僕は思っています。

身体が痛いという人には「そうなんだ」と思うし、悲しいという人には「そうなんだ」と思う。決して「そんなの痛いうちに入らない」とか「他のみんなも悲しい思いをしてるけど泣かないのになんだお前だけ」なんて言いたくない。

 

なので、作者が「再生の物語」と銘打っているのなら僕は「そうなんだ」と思って読みます。全くの創作ならいざ知らず、これは事実をもとにした当事者の手によって書かれた実録エッセイです。それを穿った見方で読むのって、なかなか表に出しにくい話をせっかく描いてくれている作者に申し訳なくないですか?

例えば「本当は今でも根に持ってるんじゃないの?再生の物語とか言ってるけど本当は全然許せてなんかいないんじゃないの?」とか考えるのって、それはそれですごい失礼じゃないかと思うんですよ。

自分も毒親持ちだったら「そんな簡単に許せるもんかな?私は許してないけど」とかふつうに思えるのかもしれません。ただ、僕はそんな経験ないんですよ。経験もなくて何もわからない僕が勝手な憶測で「これいい話風に書いてるだけで未だに恨んでるだろ」って言うのって、端的にものすごく失礼じゃないですか? 本人が「再生の物語」と言ってるのに、外野の何もわかってない僕が「本当かな~?」なんて言えるわけないじゃないですか。

過去のエピソードがどんどんえげつなくなっていて不穏な空気になってたとしても、本人が「再生の物語」と言って始めてるのを信じればこそ「色々大変だったんだろうが本人なりに消化できたからこそ描けてるのだろう、本人がそう言っているのを知りもしない俺が疑うのもおかしな話だ」と僕は考えていました。

それで、15話です。

ぶっちゃけ、僕だってハゲックス読者だし、どんだけえげつないエピソードが出てきたところでそれにショックを受けたりしないし、父親のあかんさを告発するのも別に悪いこととも思わんし、そんな自分のことを「キレイなものしか見たくない」みたいな人間とは全然思わんのですけども。

じゃあ俺は何が気に食わなかったのか。

それは、この漫画を「再生の物語」だと思って読んでいた自分が「毒親の問題を矮小化して感動コンテンツとして消費することを望む読者」であると言われたような気がしたからです。

いや、ちょっと待って? 俺はそんなの別に望んでない。今でも許せない話ですよって言ってくれれば「そんなことないでしょ、なんだかんだ言って世界にただ一人の親なんだから」なんて言うわけもなく「そうなんだ、そりゃ簡単には許せないよね」と思いながらふつうに話を読んでいたはずです。

作者であるあなたが「再生の物語」と言ったから、「本人がそういうなら余計な詮索も野暮なので、そうなんだと思って読むのがいいのかな」と思って読んでいたのが僕です。

毒親持ちならこの展開に「やっぱりね」と思えるのかもしれませんが、僕が事前にこの展開を予想するのはそれこそせっかく苦難を乗り越えて気持ちの整理がついた作者の心に土足で踏み込んで下衆の勘繰りをする行為だったかもしれないわけで、そんな失礼なことできませんよ。

僕はそういうわけで、この物語をずっと作者の言うことを鵜呑みにして「再生の物語」だと思っていたわけです。それを望むとか望まないとかじゃなくて、作者本人が言ってることを否定しちゃいけないと思ったから。

そこで突然言われたような気がしたんです、「あなたは毒親持ちのことを何もわかってない、ひどすぎる話はひくのでほどほどにセンセーショナルなエピソードを望み、色々あったけど今は幸せ!というストーリーを欲しがる、私のことなんか何もわかってない人なんですよね」と。自意識過剰だと言われようが、だってそう思ったんだもん。

いや、それは違うよ、たしかに俺はだって自分がそうじゃないから、毒親持ちの気持ちはわからないかもしれない。けど、僕は、ただ他人事として毒親の話をなんだかんだ最後はハッピーエンドのコンテンツとして消費したい人ではないですよ。

あなたが「再生の物語」と言って連載を始めたから「そうなんだ、きっと色々大変だったとは思うけど、本人がそう言ってるんだから、再生の物語として描けるまでに至ったんだと思うしかないよね、いいや本当は再生なんかできてないはずだって言える立場に俺はないもん」と思って読んでいただけです。

 

もちろん、今でも自分のなかで解決なんてできてないこと、状況が変わって本当のことを書こうと思ったこと、それらは全く悪いことではないと思います。

 

ただ、なんでそのついでに、作者が本当のことを言えなかったから結果的についてしまった「再生の物語」という嘘を信じた読者を(僕なんですけど)、感動のストーリーを求めるだけで毒親持ちの苦しみには実際は何の興味もない人呼ばわりしなくてはならなかったのか。

僕はその点だけ、全くなにひとつ納得することができません。

経験してないやつは理解しようと努力したところで「どうせ経験してないやつは何もわかっちゃいないから」って馬鹿にされるのが関の山なのでしょうか。それってなんかけっこう、巡り巡ってみんなしんどくなっちゃわない?と思うんですけど。どうなんでしょう。

 

ずっと言いたかった本当のことを言えてよかったですね、とは素直に思っています。以上です。